コラムB&W

 
「写真展紹介」コーナーでは、原則的にモノクロ作品の個展をご紹介させていただいております。ご紹介させていただいた展覧会には可能な限り伺い作者にご挨拶をしています。その折の感想等を追加書き込んできましたが、紹介の時期と会期が離れていたり会期末に訪れたりであまりお読みいただいていないようです。 
 今後は『コラムB&W』で折々に感じていることなども含めて書いて行きたいと存じます。
 ※030以降のコラムに添付されている画像を、クリックしていただければ拡大画像をお楽しみいただけます。

084ファインプリント 銀塩写真&デジタル


  デモ中の中島秀雄氏
ギャラリー円月(東京・新宿)で開催中(2月13日まで)の『アンセル・アダムス作品展』は、オーナーのコレクションのモダンプリント(ヨセミテ・プリント)と中島秀雄氏と春日広隆氏のオリジナル作品展の三部構成となっています。
 中島秀雄氏は、日本におけるゾーン・システムの教育者として有名。また春日広隆氏は、デジタルプリントでモノクロ作品を発表されている第一人者。このお二人によるセミナーが、2月3日(日)雪が降りしきるなか同会場で行なわれました。中島氏は「ゾーン・システムとは何か」という概説、春日氏は「デジタル・ファインプリントの現状」と題して話されました。実はお二人の講義を聞くのはこれが初めてではありませんが、心新たにする機会と思い聴講しました。
 「銀塩写真からデジタルフォト」なのかそれとも「銀塩写真とデジタルフォト」なのかが大きな問題だと考えていました。結論は並存させるべきだということです。「ただデジタルフォトには表現理論が確立されていない。理論構築が早急の問題」と春日氏は話されていました。大いに共感できました。また「デジタルを使いこなすためにも、銀塩写真のセンシトメトリーは必要」とのことでした。
 センシトメトリーをカリキュラムから外している写真関係の教育機関は、将来に大きな禍根を残したのではないかと思います。一昨年、日本写真文化協会の機関誌『写真文化』に「モノクロ写真にこだわる」と題して連載させていただいた中に、「嫌だけれどセンシトメトリーは大事」という一文があります。今回のセミナーに参加し、デジタルフォトでもセンシトメトリーが必要とのことを知り我が意を得た思いです。
(2008年2月5日)

  講義中の春日広隆氏

083写真展1000回開催でギネスを目指す!?

 写真家須田一政氏にはファンが多い。私もそのひとりです。須田氏は、現在大阪芸術大学教授、須田塾主幹として若き写真家を育てています。
 またご自身の個展も多く、「1000開催してギネスを目指している。」という噂がありました。
 さて多くの写真家がおられるますが、写真史的見地では、@生涯同一テーマ・同一手法の写真家とA時と共にテーマや表現方法が変り続けた写真家がいたと思います。@の代表は木村伊兵衛氏で、Aは土門 拳氏だと思われます。二人の作家歴史を辿れば明白でしょう。生涯ライカの名手だった木村伊兵衛は、小型カメラの特性を生かした人物写真を残してくださいました。(後日、日本写真家協会の設立の関わり初代会長に就任)・・に対して土門 拳は悩みながら機材を替えながら自己の表現を追求してきたと思います。戦前のガラス乾板で撮影した「文楽」。35ミリカメラを駆使して撮影された「ヒロシマ」や「筑穂のこどもたち」そして「風貌」。大形カメラを使った古美術品の作品、そして日本の美に迫る「古寺巡礼」、その時のテーマに従ってカメラが選ばれています。
 須田氏の作品も時代によってカメラが変ってきています。方法論を常に模索しているのでしょうか。数年前に銀座の泰明小学校前でお会いした時は、8ミリムービーカメラで1コマ撮りをされていました。
 私は、ハッセルで撮影された「風姿花伝」が好きです。同時代に撮影された作品「民謡山河」ギャラリー冬青12月22日まで開催中です。モノクロ作品の真髄を見ることができると思います。ぜひ見ていただきたいと思います。
 会場の解説を掲載させていただきます。文中の田中雅夫先生には随分お世話になりました。
 「民謡山河」は写真月刊誌「日本カメラ」に連載した写真群である。今は亡き写真評論家・田中雅夫氏の古典落語のごとくリズミカルで流暢な文章と、当時30歳代後半だった私の写真による連載は、初回は富山県「越中城端(じょうはな)の麦や節」。以後、北に南に日本の民謡・祭りを訪ねて短い旅を24回。最後は再び富山県「越中おわら節」で幕を閉じた。
 今年、冬青社より同タイトルの写真集を刊行するにあたり、写真展を開催することになった。時を重ねて改めてあの時の旅の貴重さを思い知る今、雑誌連載の原稿として発表された作品を直に鑑賞してもらえる機会を得たことを嬉しく思っている。日本の源泉ともいえる民謡・祭りをささえる人々の表情の機微を、当時のプリントから受け取ってもらいたい。    須田一政
(2007年12月18日)

082『ダンカン ピカソを撮る』展を見ました。

 11月15日午後、写真展巡りで都内を歩きました。まずは品川のキャノンギャラリーSの林忠彦先生の「東海道」と義勝さんの「十六夜日記」を見て、銀座と新宿を巡って最後はシリウスで開催されているゾーンシステム研究会展のオープニングへ行く予定。品川から新橋へ、新橋で下車してコダックフォトサロンへ向かう途中、路上に「ダンカン ピカソを撮る」(吉井画廊)という立て看板を見つけました。さっそく拝見。ダンカン氏がピカソを撮影した作品は数点見ていましたが、会場には70点もの作品が展示されていて圧巻でした。被写体は全て画家ピカソ。ピカソの秘密が写しだされているように思えました。私は、特にピカソの背後に虹が出ている横位置の作品には魅了されました。ぜひ見ていただきた写真展です。詳細は「写真展紹介」ページで紹介しています。
 D・D・Dことダビット・ダグラス・ダンカンの名は私にとって特別なものです。1967年写真を学ぶべく上京したころに知った写真家だからです。当時はベトナム戦争真っ只中で、沢田教一氏や一ノ瀬泰造氏など多くの従軍写真家が命を落としていました。一般の方にも知られている報道写真家ロバート・キャパは、第一次インドシナ戦争(ベトナム対フランス)で地雷に触れて亡くなっています。
 ダンカン氏はライフ誌のスタッフ写真家として活躍され、第二次世界大戦時の沖縄の取材を皮切りに朝鮮戦争やベトナム戦争を取材してきました。朝鮮戦争従軍時にニッコールレンズの優秀性を証明したことは有名で、日本のカメラ工業界に大きな功績を残しています。グラビア特集「ダンカンの目がとらえたケサン」(サンデー毎日誌1968年3月31日号)は今も持っています。左記へ引用しました。画面をクリックしてしばらく待つと拡大マークが出てきます。それをクリックすると鮮明な画面となり判読できます。ぜひお読みください。
 「英雄なき戦争」という写真展をニコンサロンで開催されています。
ベトナム戦争終結後の1975年頃、写真集「War Without Heroes」を購入し毎晩のように繰返し見ていたことを思い出します。ベトナム戦争で活躍した先輩写真家に思いを馳せていたのでしょう。
(2007年11月16日)

081『ブナの学校』で白神山地十二湖巡り



セミナーハウス白神勉強館203号室からの眺望
 先日の連休で、JR東日本・秋田支社主催の『ブナの学校』で白神山地へ行きました。トレッキングコースと登山コースにそれぞれ3コース計6コースあるうち、トレッキング入門「十二湖巡り」に女房に連れられて参加しました。集合地の秋田駅までは新幹線。ここから貸切バスで一路、宿舎の町立セミナーハウス白神勉強館(青森県深浦町)へ。参加者は27名、トレッキング入門編とあって殆どが中高齢の方々でした。
 入校式のあとは、ガイド原田勇成さんによる勉強会がおこなわれました。何しろ白神山地は世界自然遺産ですから充分な学習が必要なのですネ。『白神山地は青森・秋田両県にまたがる山岳地帯の総称で、その規模約13万ヘクタールとされています。白神山地のほとんどがブナ林で、その広さは世界最大級といわれています。動・植物の宝庫となっており、国の天然記念物クマゲラ、イヌワシをはじめツキノワグマ、ニホンカモシカ、ニホンザル等が生息するほか、植物については、南限・北限の混成地帯となっており、その種類の多さは驚きです。』
ンフレットにあるります。世界自然遺産登録地域には許可が必要な地域と許可された者が入れる調整区域があり、『ブナの学校』のトレッキングでは調整区域の外側の国定公園地域を歩くとのことでした。ブナ林とそこに生息する動植物についての話は大変面白く拝聴しました。
 翌日は8時30分に出発。予報では雨であったが曇りとは幸運。途中まではバス、登山口からは一部を除いてほぼ平坦な山道を進みました。神秘なブルーの湖面を持つ青池を始め大小十二の池を巡りました。王池東湖では湖面の枯れ木に鳥が留まっていました。・・・が、そこにストロボの光。誰かがフルオートのカメラで撮影したのでしょう。昼食後バスで移動し日本キャニオンへ。アメリカのグランドキャニオンと比べるのは、少々恥ずかしいが特異な地質に魅了されました。夕刻宿舎に戻り小休止。窓から一望できる日本海は厚い雲に覆われていました。これでは美しいサンセットは無理と諦めました。ところが日没直後燃え上がるような夕焼けとなり、しばし感動の時を過ごしました。
 久しぶりに良い宿に出会いました。深浦町では『地産地消(産地で消費しよう)』をスローガンとして『白神 海彦山彦食の旅』を薦めています。セミナーハウス白神勉強館では、地域の婦人たちが地場の食材で料理を作って出してくれます。美味しくいただきました。特に山菜のミズは魅力的な味でした。
 持参したデジカメの単3電池が消耗してしまいました。予備電池を持たないとは写真家として問題あり。しかし買おうにも町立の施設ゆえか売店がありません。部屋の案内には「コンビニは、秋田県側は八森消防署前、青森県側は深浦町金ヶ崎にある」とあります。ここはバスで海岸べりの国道101号から山道に入り20分ほどのところ、とてもじゃないが買いに行くことはできません。で困っていたところ、フロントのA氏に私物の電池を譲っていただきました。感謝。
 連絡先 ブナの学校運営協議会事務局(TEL 018-831-6726) セミナーハウス白神勉強館(TEL 0113-84-5225)
深浦町観光協会 深浦町観光課
(2007年11月6日)

080フィルム現像・プリント、全てラボ任せだけど!

コダックフォトサロンで開催中の写真展「Paris 写楽U」(10月2日まで)で魅惑のパリに出会うことができました。落ち着いたモノクロの写真展でした。モノクロ写真の素晴らしさを再確認できました。ここに来るまえに六本木の某フォトサロンで、『美しい日本』を写したカラーの写真展を見てきたので尚更強く感じたのです。『カラー写真は感情を刺激し、モノクロ写真は心理を刺激する。』という思いが深くなりました。
 アッジェを思い出させるウィンドウに映り込むパリの町並み。カルティエ=ブレッソンがカメラを向けたような恋人たちの姿。和まされる作品の数々を拝見し、つい「ブラッサイのような夜のパリの写真が見たい」と注文をしてしまいました。作者の今村美穂さんは、作品同様に落ち着いた方で「リタイヤしてからパリを写すようになった。」と語っておられました。
 コダックサロンのHPには、同展の紹介があり「作者の言葉」が掲載されているのでご紹介いたします。「素顔のパリを足の向くまま、気のむくまま、そして感じたままをモノクロームで、楽しく撮り続けました。街の風景、ブランドのショーウィンドーの映り込みや若者の愛の表現等をモノクロームで表現してみると、古都パリの魅力が生き生きと静かに語りかけてくる気がしました。今回は2004年12月から2006年7月までに撮影した中からの展示です。」
 「撮影フィルムはプラスXとT-MAX400」とあるのでお聞きしたら「フィルム現像もプリントもラボ任せ」とのことでした。デジタルに移行していったアマチュアが「暗室作業が億劫になったから」という話を良く効く聞きますが、暗室作業をラボに任せて撮影に専念するというモノクロ写真の楽しみ方がある事を知りました。「貸し暗室があるのだから、ぜひ一度プリントだけでもやってみたら」とお勧めしましたが・・・。
(2007年9月27日)

079猫派による、猫派のためのギャラリー『猫町

 金森玲奈さんから写真展『幸福な時間の中で』の案内をいただきました。谷中のギャラリー『猫町』とは初めて聞く名前でした。谷中は撮影で結構歩き廻っている大好きな街です。何軒か新しいギャラリーができた注目のスポットです。昨日、炎天下汗を流しながら訪れてみました。地図を辿ってギャラリーに着いてビックリ、館内は猫尽くし猫のグッズでイッパイでした。猫好きのためのギャラリーと言って良いでしょう。猫好きの方はぜひ行ってみてください。
 金森さんは、昨年6月に銀座のミキモトホールで『街猫--豊かな国の片隅で』というモノクロの個展をされた若い方です。彼女の写真集『ちいさな宝物 三毛猫さくらの成長記録』は、本ホームページで紹介しています。
 私はどちらかといえば犬派かな。父が狩猟を趣味としていましたので、猟犬としてポインターかセッターが飼われていました。だから幼い頃より犬と戯れていたわけです。両親とも動物好きで、犬・猫・鶏・カナリア・鶫・ふくろうなどなどが・・・全部が同時期に一緒にいたわけでなく少なからず時間差があったはずですが、今になっては判りません・・・冬になると猫をアンカ代わりにするので兄弟で奪い合いをしたことを思い出します。そうそう真冬に私の布団の中で猫が出産したことがありました。冷たい外よりは私の体温で温まった布団の中が良いと判断したのかもしれませんネ。
  (2007年8月3日)

078パリの全ての道を歩きつくした写真家

 ギャラリーコスモス企画展「国内初公開・銀城アトムの世界」(7月17日〜8月8日)を観ました。作品展は『窓映』と『パリの夜』の二部作。『窓映』は、窓に映り込んだパリの姿があります。窓枠のテクスチャーとガラス窓の虚像が面白。ガラスに映り込んだパリの姿といえば、ショーウィンドに町並みが映り込んだアッジェの作品『マネキン』を思い出します。またパリの夜といえば、どうしてもブラッサイを思い出します。ブラッサイの作品には闇に蠢く人びとの姿があるが、銀城の作品に人影すらない。しかし窓の明かりや外灯に人の営みを見ることができます。見せていただいた作品ファイルには、ブレッソン似のスナップショットもありました。パリのギャラリーで名作を見て学ばれたのでしょう。惜しい写真家です。
 銀城アトム(本名は敏彦)1951年樺太で生まれ、両親と共に最後の引き上げ船で帰国。1985年に渡仏し1999年帰国。在仏中に今回発表の作品を撮影されました。2005年逝去、享年54歳で余りにも早世でした。
 解説パネルには次のように書かれています。
 --1985年、銀城はパリに渡った。環境を変え、写真漬けの生活を送りたかった。パリを選んだのには深い意味はなかった。ヨーロッパの真ん中だし、世界の写真を見るにはいいような気がした。この町で自分の作品づくりをしたかった。しかし「華の都」は撮るきになれなかった。終電過ぎに、華が消えた夜の街を歩き、シャッターを切った。そして、人に頼み込み、その家の窓に映る内と外を写した。よそ者の自分、地にあしが付かず、浮遊感が消えない心境には、そうしたパリの姿が合っていた。パリ市内の全ての道を歩きつくしや後、心に生まれたテーマを求めて郊外生活を始める。--
 (2007年7月23日)

077富士フォトサロン(銀座)ついにクローズ!

  2007年7月12日午後7時30分、富士フォトサロン(銀座)が惜しまれつつ50年の歴史を閉じました。富士フィルム鰍フ東京ミッドタウン(六本木)に会社機能を集中するという方針に沿ったものなのでしょう。
 18時から「50年分のありがとう」という会が行なわれました。案内状を頂いたので私も参加しました。開会前から多くの写真関係者が三々五々集ってきました。以前日本写真家協会の技術研究委員会でお世話になった女性写真家には20年ぶりぐらいでお会いすることができました。普段はお会いできない方々に会うことができた懐かしさ一杯の会でした。19時過ぎには会場を去る方々も多かった。きっと近所で飲み直しされたのでしょう。
 富士フォトサロン(銀座)は1957年7月3日開設されました。第一回展は富士フォトサロン展、そして第二回展が「名取洋之助報道写真展」でした。名取氏は、岩波写真文庫の編集を担当され長野重一氏や東松照明氏という巨匠を育てられた方ですから、これが実質上のオープニング写真展と言って良いのではないでしょうか。当時常設の写真ギャラリーといえば、松島ギャラリー(1951年〜1957年)と小西六フォトギャラリーしかなく、大規模な写真展は高島屋(京橋)か松屋(銀座)で開催されていました。そんな事情もあって富士フォトサロン(銀座)は、写真界の発展に大きな役割を果たしてきたのです。その後松屋ギャラリーを引き継ぐ形で発足したのが銀座ニコンサロン(1968年開設)でした。
 「50年分のありがとう」会に出席した者は、「富士フォトサロン 50年の歴史1957〜2007」という年表のお土産をいただきました。じつはこれが目当てで出席したようなものです。「日本現代写真史1945〜1995」(社団法人日本写真家協会編纂・平凡社刊)に年表担当として編集に加わった時、この年表の原資料となった思われる写真展のリストをお借りしたことがあったからです。
 昨今は美しい風景写真を主としたアマチュアの写真展が多くなっていましたが、開設当時は写真史に残る名作が数多く開催されていました。頂いた年表から拾い出してみます。1957年8月、杵島隆「裸」。9月、奈良原一高「王国」。12月、長野重一「香港」。 58年1月、濱谷浩「詩のふるさと」。5月、中村正也「ジャックの裏」。9月、藤川清「部落」。12月、川島浩「未来誕生」。60年3月、土門拳「筑豊の子供達」。7月、長野重一「ベルリン・東と西と」。奈良原一高、「カオスの地」。 61年5月、佐藤明「女たち」。8月、福島菊次郎「ピカドン」。 62年7月、東松照明「ドキュメント1961・ナガサキ」。9月、桑原史成「水俣病」と続きます。報道写真やドキュメンタリーが元気だったことを物語っています。
 今回年表を頂いて気がついたことは大学生が頑張っていたことです。「東京六大学写真展」「全日本学生写真展」「東都六大学写真展」「関西学生写真連盟展」などなど、まるで野球の試合のようですね。
 毎週、富士フォトサロン→コダックフォトサロン→銀座ニコンサロン→キャノンギャラリー→ギャラリーアートグラフの順で写真展巡りしていたので、来週からは寂しくなります。長年良い作品を見せていただきましたし、東京綜合写真専門学校や日本写真学園の卒展の折はスタッフの方々にお世話になりました。感謝申しあげます。
 (2007年7月14日)

076 秘訣は名作を繰返し見ること

 神田神保町の魚山堂書店から「映像 デザイン 広告 印刷 写真機写真関係文献目録」が送られてきました。年三回発行される古本のブックリストです。
 魚山堂書店の店主伊藤俊一さんとは、同店が旗の台駅(東急池上線と大井町線の交差点)近くにあった時に何度かお会いしています。しばらく前に神保町にお店が移転しましたが今だお店に行っていません。目録を見て本名をファクスすれば購入できるからです。そんな関係で朝日新聞に掲載された記事広告『視線の轍(わだち)』を、3月11日付け「コラムb&W」で紹介した次第です。御茶ノ水や秋葉原近辺には週二度ほど行くので足を伸ばしてお店に行ってみたいと思っています。魚山堂書店さんの目録を必要とする方は直接お問合せ願います。電話03-5211-6003、FAX03-5200-5488
 いつもは写真技術と写真史の項目のリストを見るだけでしたが、久しぶりに写真集のリストを見ました。そこには高額写真集がたくさん掲載されていました。私の本棚には、「ヨーロッパ・静止した時間」奈良原一高(168.000円)、「人間の土地」奈良原一高(42.000円))、「地の貌生の貌」濱谷浩(47.000円)、「パリ」木村伊兵衛(126.000円)、「11時02分NAGASAKI」東松照明(105.000円)、「日本」東松照明(198.000円)、「家」篠山紀信(168.000円)がありました。( )内の数字は目録にある価格。濱谷浩氏の「地の貌生の貌」以外は独身時代に生活費を切り詰めて購入したものです。一所懸命勉強した証し?ほとんどが古本で購入したので上記のような値段にはならないでしょうが、何となく得した気持ちになりました。
 写真が旨くなるには名作を繰返し見ること。恩師の重森弘淹先生は、合評(学生の自由作品を複数の先生方が批評する授業)が終わると、「小山、俺は家に帰って名作写真集を見るのだ。学生の写真を見ると批評眼が鈍るから」と常々仰っていたことを思い出します。写真集が投機の対象となって高騰していることを残念に思います。
 (2007年7月3日)

075 茨城県美術界の慶事


 少々旧聞になりますが5月19日(土)、「後藤俊夫氏『林忠彦賞』受賞記念祝賀会」に出席しました。祝賀会は『茨城県美術界の慶事』ということで、茨城県美術展覧会(芸術団体の連合会)の有力メンバーが集っておられました。そんな諸先輩のまえで来賓挨拶としてお祝いを申しあげました。
 後藤さんは1938年生まれ、定年退職後に中国観光ツアーに参加しこのテーマに出会ったといいます。後藤さんには、昨年新宿ニコンサロンで開催された「満蒙開拓の村へ」展でお会いしました。(同年出版された写真集「黄土高原の村/満蒙開拓の村」は、「図書の紹介」欄に掲載してありますのでご覧ください。)お話を伺うと、茨城県の高校写真連盟の事務局を担当された元高校教員とのこと。私が茨城県高写連のお手伝いする様になって17年になりますが、事務局を担当されたのはそれ以前のことでした。メールの交換がありましたが、いわば一期一会の関係でした。それにしても高校写真部顧問OBの先生方が集った「高写研フォトン茨城」というクラブの存在には驚かされました。茨城高写連のレベルが高いわけが理解できました。
 (2007年6月11日)

074 これぞ映像詩!写真・映像・建築のコラボレーション

 JR新橋駅で新交通システム「ゆりかごめ」に乗り換えお台場海浜公園駅で下車します。横断歩道橋を進むと左手にコンテナが積み上げられ天井部分がテント張りの奇妙な建物(?)が出現します。そこがノマディック美術館です。期間限定の特設会場だったのです。会場に入ると暗闇に巨大なプリントが掲げられています。象と少年僧の関わりが描かれていますが、何頭もの象が傅かれる少年僧は仏陀なのかもしれませんネ。セピア色のモノトーンが見る者の想像力を掻き立てます。後半は砂漠で瞑想をする女たちに豹がまとわり付き、遠くからハイエナが狙っているシーンが続きます。豹やハイエナは、まるで荒野で祈るキリストを誘惑するサタンのようにも見えます。
 パンフレットで作品について次のような記述がありましたので引用しご紹介いたします。
 「Ashes and Snowは、写真作品、映像、美術装置、手紙形式の小説が一体となった、現在も進行中のアートプロジェクトです。15年間にわたり、グレゴリー・コルベールは40回以上もの長期遠征を行い、インド・エジプト・ミャンマー・トンガ・スリランカ・ナミビア・ケニヤ・南極大陸・ボルネオ諸島など世界各地で、人間と自然界の傑作というべき動物との交流を写真や映像に収めました。どの作品もデジタル画像処理や合成、字幕などを加えずにグレゴリー・コルベール自身がレンズを通して見たままに記録されました。スチールとムービーカメラの両方を使っていますが、スチール写真は独自に撮影されたもので、映像のワンシーンを流用したものではありません。こちらミクストメディアの作品は、アンバーとセピアの色調で表現され、手漉き和紙に独特の手法で焼き付けられました。観賞する人が自由にイメージをふくらませられるよう、解説を付けずに展示されています。」
 オランウータンと少女の交流のシーンは素晴らしく美しいものでした。また頭上を象が泳ぐ姿を捉えたシーンは圧巻でした。一般の入場料が1.800円と少々お高いようですが一見の価値ありです。会場内にはスクリーンが3面あります。それぞれを見なければ作品全体を理解できないでしょう。余裕のある観賞時間が必要です。詳細は「写真展紹介」をご覧ください。
  (2007年4月28日) 

073何故売れぬ写真集!報道写真家の嘆き!



写真集「この大地に命 与えられしもののたちへ」
清流出版株式会社
2007年3月27日刊
¥2.400+税
  友人の報道写真家桃井和馬さん(日本ビジュアル・ジャーナリスト協会会員)からメールが送られてきました。そこには報道写真家の悲痛な叫びがありました。転送自由ということですので以下に掲載します。
          ※
  桃井和馬です。3月中旬に出版した写真集「この大地に命 与えられし者たちへ」(清流出版・2400円+税)の売れ行きが、正直なところ、まだまだの状態です。そこで、これはお願いメールです。出版業界は冬の時代を迎えています。特に写真集は「真冬の時代」をずっと続けています。しかし、瞬間を切り取った写真の役割は、「想像力」が失われた今という時代だからこそ、重要だと確信しています。けれども、出版した本が売れなければ、その作家は、市場から容赦なく淘汰され、次ぎの本を出すこともできなくなるわけです。これが厳しい現実に他なりません。そこで、お世話になっている皆様にお願いがあります。
  1/書店などでお求め下さい。2/お住まい、または会社近くの図書館で、「この大地に命 与えられし者たちへ」(清流出版)をリクエストしてください。3/インターネット書店のレビューへの書き込み、また皆様のブログで応援してください。
 少しでも多くの本が売れることが、私は私が出会った被写体への責務を果たすことだと思っています。また、少しでも多くの本が売れることが、「金だけが物差しになってしまった日本社会」に対する、「もうひとつの生き方」を提示する方法だと思っています。日本社会の中で化石になった「フォトジャーナリズム」という職種を応援する意味でも、以上をよろしくお願いいたします。このようなメールをお送りする無粋をお許しください。                                 桃井和馬
  以下、前回のメールでお送りした内容です。いつも取材中考えているのは、私はなぜ、地球という星に生まれたのか? ということです。この時代、この星に生まれたことには意味がある。それは何なのか? そして、私という個だけでなく、人類がこの地球にいることにも意味があるはずです。 この写真集では、そのことを、正面から捉えてみました。戦争や紛争に明け暮れる人類。環境を破壊し、人々の叫びも聞こえてきます。しかし同時に、人々は許し合い、愛を語る存在でもあるのです。人類はこの地球で、狂気と正気の狭間を揺れ動きながら、今という時代を編み続けているのでしょう。人類=ホモサピエンス(知恵を持つ人)は、地球の未来に対し、どんな知恵を発揮することができるのか? どんな未来を切り開いていくのか?
  一枚一枚の写真を丹念に見つめると、きっといろいろなことが想像できると思います。そして想像力を刺激することが、この本の狙いでもあるのです。ちなみに掲載写真は主にデジタルで、ここ5年ほどで撮影したもの。現在、都市部の大型書店では平積みにされているとのことですので、大型書店、またはインターネットなどで、お買い求め頂けますと幸いです。なお、本の売り上げは、インターネットでの評価が大きく影響することが分かってきています。この本がひとりでも多くの方に見ていただけるよう、また桃井和馬の仕事を支える意味も込めて、書店で購入された方も是非、インターネット書店などに感想を残しておいてください。 桃井和馬
           ※
 写真集「この大地に命 与えられし者たちへ」は、「9・11テロ事件」の現場グランド・ゼロの写真で始まります。「この、あまりにも無機質で メタリックな光景が 出現した瞬間から 人類は新しい時代に 突入してしまったのかも知れない。・・・」で始まるコメントが付け加えられています。そしてエルンスト・ハースが写真集クリエーションで描いたように天地創造を物語る風景写真が続きます。・・・その後は、戦争という人類が犯した罪の数々が・・・このように真実を追う素晴らしい写真集が何故売れないのでしょうか。現実を見たくないというのでしょうか。この写真集には大マスコミが伝えない多くの事実が写し出されています。写真家個人を支えるということ以上に、この写真集で現実を直視することを広げたいのです。私も微力ながら協力したいと思っています。この欄をお読みいただいた皆様、桃井氏の願いを受け入れていただきますようお願い申しあげます。また桃井氏のホームページにもアクセスしてください。http://www.e-mb1.com/momoi/
 (2007年4月23日) 


写真集「破壊される大地」
岩波書店
2003年12月5日
¥1.800+税

072その昔、写真学校は地名で呼ばれていた。



東京綜合写真専門学校
 私が写真を志して上京してきた頃(1967年)は、東京工芸大は中野、日本大学芸術学部写真学科は江古田、日本写真芸術専門学校は渋谷、東京綜合写真専門学校は日吉、東京ビジュアルアーツは旧校舎のあった御茶ノ水、他に廃校となった日本写真学園は飯田橋、千代田写真専門学校は上野と呼ばれていました。また横浜には関東写真実技学校という学校もありました。・・・で校名が長く似ていたのでつい所在地の名前で呼んでしまったのでしょう。
 いま写真教育は一大転換期を迎えています。そのことを裏付けるように入学者が減っています。デジタル時代で撮影が楽になり専門教育を受けるほどのことは無いということなのかもしれません。デジタルフォトに問題がないのか一考の要があると思います。
 1枚のネガから多量の複製ができることが写真の特徴といえます。写真批評家の故重森弘淹先生は、その著書『写真芸術論』で「コロディオン法の出現は写真が比類のない--たとえばそれまでの版画技術以上に--複製技術手段であることを証明したのである。そしてまた安価に肖像写真が手に入る喜びを大衆に与え、大衆はまた肖像写真熱にうかされることになったのである。大衆の肖像写真熱はブルジョワジーの階級的象徴として独占されていた肖像画の解放を意味するものであった。つまり肖像画の大衆化のはじまりであった。しかし写真が複製技術手段としてその位置を決定的にしたのは、写真が印刷技術という、もうひとつの複製技術と結びついてからである。」と写真の複製芸術としての意味を記されています。写真の複製・伝達という産業的期側面を評価するとデジタルカメラの有効性にはかないません。たしかに携帯電話とノートパソコンがあればリアルタイムで送稿できるなどその利便性は優れています。またWeb上での展開は正に多量複製の極みでしょう。従って銀塩写真とくにモノクロ写真は、マスメディアから脱却して新たなる歩みが必要なのかもしれません。
 重森先生は、1973年から勤めた東京綜合写真専門学校の校長であり恩師であります。実習助手・研究室員(教務スタッフ)・研究室長(教務主任)・専任講師・非常勤講師と肩書きは変りながら務めてまいりました。だから東京綜合写真専門学校は愛する母校です。専任講師のころ学園祭でラーメンの模擬店を出していました。重森校長はスープを全部飲み干してから「小山!まあまあだな。」といわれた言葉を懐かしく思い出します。昨年(06年)11月の学園祭で久しぶりにラーメン屋を開きました。味は好評だったと思っています。なんせ男の料理ですから食材は豪華なものです。アゴ(トビウオ)の煮干と利尻の根コンブでとったスープにエバラの最高級のラーメン醤油を使うのですから、不味いはずはありません。その折り「小山ラーメンは、リターンかファイナルか」と話題になりました。3月31日、同校との講師契約が満了、1973年実習助手として就職してからの34年にわたる関わりが終了しました。昨年の学園祭で小山ラーメンはファイナルでした。これからは一卒業生として母校を見守りたいと思っています。
 (2007年4月15日)

071クリック募金』にリンクしませんか。

 過日「心の健康館」というサイトから相互リンクの申し入れがありました。さっそくホームページを拝見したところ、トップページに「クリックで救える命がある」というクリック募金の欄がありました。説明文には「クリック募金とは、サイト上の募金ボタンをクリックするだけで、無料で募金ができる仕組みです。あなたに代わって、スポンサー企業が寄付をするので、あなたは一切お金はかかりません。」とあります。これなら気軽に社会貢献ができるのではと思い、我ホームページ「モノクロ写真研究室」でも取り入れることにしました。どうか皆様のご協力をお願いいたします。毎朝パソコンを起動したら我ホームページでクリックしてください。またホームページを管理されておられたら、是非このサイトにリンクしてください。ささやかな行為ですがそれによって助かる命があるのですから。
 現在のスポンサー企業は、コスモ石油、エイブル、キリンビール、価格.com、日本製粉、JPMO、e-まちタウン、味の素の各社です。
(2007年3月20日)

 070『視線の轍(わだち)』という朝日新聞の記事広告

 還暦を迎える今年の正月は元日からバタバタしていました。看護師の妻は元日勤務、昨年独立して都内に転居した長男と秋葉原に小さいながらも事務所を構えた次男はともに家に寄り付きません。二人とも仕事が面白いようです。3日、近くの写真館で家族写真を撮ってもらうことだけを約束しそれぞれの都合に合わせることにしました。私は元日の消印を貰うべく年賀状を準備して一日を過ごしました。
 溜まった新聞を整理していたら『視線の轍(わだち)』という記事広告を見つけました。「今、この瞬間を切り取り記録する写真は、時を経て熟成するもう一つの現実」というコピーが付いていました。朝日新聞広告局製作の広告特集で上半分が記事広告、下半分は印刷用紙・印刷インキ・印刷機材のメーカーの連合広告でした。いわゆる紙媒体の関連会社の年賀名刺広告といって良いのでしょう。電子媒体に対し紙媒体側の企業が団結することが必要なのだと思います。魚山堂書店の伊藤俊一さん、長岡製作所の長岡啓一郎さん針穴写真家の田所美惠子さんの三人がそれぞれ写真を語っています。そこの企画は、私のような銀塩モノクロ写真に拘るものに大きな励ましを与えてくれました。遅ればせながら、引用させていただきご紹介いたします。
 1月4日、古書店魚山堂書店の伊藤俊一さんが紹介されていました。東急・旗の台にお店があった時代に写真関係の本を探し何度か訪れたことがあります。朝日ソノラマ社の「適正露出への挑戦」が、書き込みでボロボロになってしまいましたので注文しました。お店に行ったら書架にもう1冊あったのでそれも買い求めビニール袋に入れたまま置いてあります。神保町に移ってからはまだ行ったことがありません。年4回送られてくる図書目録で本を探しファックスで注文すれば良いからです。書架を丹念に探すのが愛書家の真髄でしょう。暇ができたら日長一日、魚山堂で過ごしてみたいと思っています。
 1月5日は木製カメラ長岡製作所の長岡啓一郎さん。木製暗箱あるいはウッドビューと呼ばれるカメラを作る会社の社長さん。この種のカメラは、製作者の温もりが感じら使う者が愛情を注ぐ対象でもあります。私は、ビューカメラのジナーFとフィールドタイプのリンホフ・テヒニカ、8×10はトヨフィールド810を持っていますが凡て金属製です。ウッドビューには強い憧れを持っています。
 1月6日は針穴写真家・田所美惠子さん。AE(自動露出)あたりまえAF(自動合焦)は顔認識まで進歩しています。手ぶれ防止技術も最近確立しました。便利!べんり!ベンリ!そこには人間は介在できません。だから最も不便な針穴写真写真機(ピンホールカメラ)に憧れるのでしょう。記事にあるように空き箱でカメラを作るのは楽しいし、撮影が主ならばレンズ交換式の絞り優先AEカメラのボディキャップに針穴を開けて使うのも良いでしょう。また高級家具に使われるチーク材と真鍮出作られているカメラZeroも楽しい。感材は各種フィルムでも良いが、手作りカメラなら印画紙をネガ代わりにする紙ネガ・紙ポジ法も面白でしょう。田所美惠子さんは日本針穴写真協会(事務局:京都造形大学)の副会長を務めています。
 この企画広告『視線の轍』は、銀塩写真モノクロ派としては嬉しものですし励ましでもあると思います。
 
 (2007年3月11日)

069美学生のドキュメンタリー作品

 コニカミノルタプラザで開催されている柳瀬修三氏の「波のゆくえ-黒島-」(3月6日〜14日)は、黒島(長崎県佐世保市)に住む隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の子孫にあたる住民たちの生活を記録したドキュメンタリー作品でした。案内ハガキで使われている写真からは、この内容を窺い知ることはできません。
 話を伺うと某美術大学を卒業されてから東京工芸大学の別科で写真を学ばれたとのことでした。美大卒の写真家を何人か存じていますが、ほとんどがアートー系の写真作品を発表される方ばかりです。柳瀬氏の作品は私が学んできた写真論に近いものでした。またモノクロプリントも印画紙の持つ能力(最高濃度)を出した美しいプリントです。一見の価値ありですネ。他の写真展でヌルいモノクロプリントを見てきたばかりだったので、より新鮮に感じたのでしょう。
(2007年3月8日)

068魅了された風景写真、考えさせられた風景写真

 新春早々、社団法人日本写真家協会が主催する「名取洋之助賞受賞作品展」の受け付け当番のため、東京銀座の富士フォトサロンで二日過ごしました。スペース1は大判写真公募展、スペース3は花の会。綺麗なカラーの作品展に挟まれて、地味なテーマの作品展でした。名取賞受賞作の「失われてゆく記憶」は作者の祖父の老いいく姿、奨励賞は祖国上海の現在が捉えられたものでした。両方ともモノクロの作品でした。
 23日同会場で妻と待ち合わせて、銀座ニコンサロンで行なわれている加藤文彦さんの「屋久島 沢と源流」(1月24日〜30日)を見にいきました。妻は看護師をしているため写真にはあまり関心がないのですが、屋久島に凝ってしまい、昨年3月には一緒に屋久島に行ったからです。モノクロフィルムが描き出す風景は本当に素晴らしいもので、濡れた岩肌の描写は何ともいえません。
 昨晩は、新宿のシリウスで行なわれた監物 博さんの「いのち」(1月25日〜31日)のオープニングに出席しました。昨年道端のアスファルトの隙間に生えた「ど根性大根」が話題になりましたが、正にこの作品は「ど根性植物」を捉えたものです。それぞれの植物が語りかけてくるように思えるのは、モノクロ写真故でしょうか。山本有三の「路傍の石」の一節を交えた作者のご挨拶にも感動しました。
 両展とも、ハッセルブラットで撮影されたスケアな画面も魅力的です。
 (2007年1月27日)
 

067頑張れ!栃木工業高校写真部!

 少々旧聞になりますがニコンの広報紙の写真部支援マガジン「Top Eye」(No.238)に、「マイカメラ 自作カメラは想像以上のド迫力」という一文が載っていました.著者は、栃木県立栃木工業高校2年の木野内哲也さんです。彼らが作ったのは木製の8×10インチカメラです。工業高校ですから工具が揃っているとはいえ大変なことだったでしょう。苦労振りは記事をお読みください。
 さて栃木県立栃木工業高校といえば、今年の全国高等学校綜合文化祭写真展で最優秀賞を受賞した手塚峻征さんがいます。カメラ作りばかりではなく、作品作りにも頑張っている写真部のようですネ。顧問の先生からは、彼の作品(8×10インチの密着プリント)を送っていただきました。「『銀塩モノクロ写真』は巨額の費用を賭けなくとも、高校写真部の暗室からも『最高のプリント』が目指せることも魅力の一つではないでしょうか。」とのコメントもいただきました。栃木工業高校写真部これからも頑張ってください。
 高校写真部の活動に注目したいものです。当HPの「ニュース」欄では、昨年の4月「高校生が、銀板写真と湿板写真に挑戦」という朝日新聞・茨城判(2005年3月22日付け)の記事をご紹介しました。改めてお読みいただければ幸いです。
(2006年12月3日)

066人影が無いのに日本の現在を語っている

 藤田 満さんの「營の景 なおうつくしき田舎町にて2000〜2006」(10月10日〜16日)と太田順一さんの「大阪24区」(10月17日〜23日)を拝見しました。共に新宿ニコンサロンで開催された写真展です。両方とも見に行けたのが会期末のため感想を書くことができませんでした。連続して開催された二つの写真展の特徴はごく近年に撮影された日本の実相です。それは現代を象徴する高層ビルが林立する都市風景ではありませんでした。
 「營の景」に写されているのは人影の無い田舎の街角でした。古ぼけた建物に心が惹かれます。そのはず、この建物は地域の経済と文化を支えた地場産業の作業所なのですから。風雪に耐えた建物の中から人の声が聞こえてきそうな作品でした。今回もまた大型カメラによる質感重視のモノクロ作品です。作者の全国行脚はこれからも続くでしょう。次回作が楽しみです。
 「大阪24区」は、大阪市内24区を歩き回って撮影された労作です。隙間無く建てられている住宅などの建物は驚きです。人間の知恵を駆使して土地を有効活用した都市の造形とみました。また社会学的な資料でもあると思われます。しかも人影が全く無いというのは驚きです。あの雑踏のなかで人を排して撮影するなどとは至難の業でしょう。文化的な資料として意味をもつ作品故ぜひ写真集出版を望みます。
 両写真展とも大阪ニコンサロンでも開催されます。ぜひ見ていただきたい作品です。 
(2006年10月26日)

065重たい心で巡った満蒙開拓の村々

 新宿ニコンサロンで開催中の後藤俊夫さんの「満蒙開拓の村へ」(9月19日〜25日)を拝見しました。発行前の写真集「黄土高原/満蒙開拓の村」(10月30日発行)には甘粛省各地と寧夏回族自治区、陝西省、山西省の一部地域を、2001年秋から05年夏まで計5回、撮影旅行を企てた。その旅行で延べ1万キロの道のりをできるだけ田舎の道を選んで、県(日本の町に相当)から県へと移動しながら、その途中途中で農村集落に入り、そこに住む人々と日常の生活を撮影したのが本書の写真である。とあります。またあとがきには黄土高原の奥深い田舎の食堂でたまたま食べた美味しい米が遥か離れた中国東北産米であることを知ったとき、ふと満蒙開拓との関係を考えてみたのです。時間の余裕ができて、自分の生れる前後の日本の歴史を学び直していたからです。このことがきっかけとなって後に、残留孤児となってしまった、年齢が私と6,7歳前後する同年代の人たちの人生に不条理さを感じて『戦後60年満蒙開拓の村へ』というテーマで撮影を始めることになりました。と制作の動機が書かれています。敬服に値するお仕事だと思います。作者は茨城県の公立高校の元教員。在職中は写真部の顧問、茨城県高写連の事務局を務められたとのこと。17年間、茨城県高写連のお手伝いしている私にとっては関係が深い方です。
 戦後、残留孤児を生み出すことになった『満蒙開拓』、全国で一番多くの人々を送り出したのが私の故郷長野県です。その中でも特に多かったのが、南信の天竜川流域飯田・伊那地方でした。満蒙開拓団を送り出すについては、長野県の新聞と教育が大きな役割をはたしたと聞いています。「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」(長野県歴史教育協議会編、大月書店刊)の解説文には「なぜ長野県は『義勇軍送出全国一』になったのか。全国で8万人を超え、長野県で7千人に届こうとする大量の義勇軍送出の背景には、何があったのだろう。とりわけ『興亜教育』をかかげ、多くの若い生命を、言語に絶する満蒙の辺境地帯に送り込んだ長野の教育界に責任はないのか。体験者の声や資料から事実を探り、問題の所在を明らかにする。」とありました。昭和22年生れの私は『団塊の世代』のトップランナーとして生きてきました。小中高といわゆる『信州教育』で育ちましたが、満蒙義勇軍送出の反省に立った教育を受けてきたように思います。ちなみに信濃教育会会館は実家から徒歩で7分ぐらいのところにあります。

 (2006年9月23日)

064「フィルム文化を存続させる会」と手を携えねばと思う。

 昨日(2006年9月18日・敬老の日)は、日本海を北上中の台風13号の影響で生暖かい雨の一日、講師を務めている専門学校東洋美術学校の学生さんから案内を頂いた「フィルム文化を存続させる会」のシンポジウムに参加しました。
 「フィルム文化を存続させる会」は、8ミリ映画を表現手段としている方々が富士写真フィルム鰍ェ発表した「シングル8の製造販売の終了(2007年3月末)と現像処理の終了(2008年3月末)」を契機に、フィルム文化を守ることを主旨として集った会でした。15時より、シンポジウムに先立って8ミリ映画の上映会が行なわれました。「Return To Forever」(乙部聖子)、「陰陽 第三版」(荻原貴之)、「連続四辺形」(原田一平)、「しゅわしゅわ」(黒川通子)、「いどうだいすき」(芹沢洋一郎)の順で上映されてきましたが「いどうだいすき(23分の大作)」の上映中に絵流れが生じ、急遽シンポジウムに切替られました。
 パネラーは、昼間行雄(映像作家)、原将人(映画監督)、波多野哲朗(映画研究家)の3氏。昼間行雄氏の発言終了時(17時)に所用のため中座しました。氏の「ハードの進歩がいいことばかりではない。」という主張は、『写真文化』に書いた「『便利』は良いことなのか。」という私の主張と重なっています。
 「連続四辺形」の原田一平氏が作品解説に書いていることを引用させていただきます。
 この作品は8mmフィルムの小さなコマを35mmスライドフィルムにブローアップし、そのフィルムをカッター切り貼りして1コマずつイメージを合成したのち、再び8mmカメラでアニメーション撮影しています。今ときの作業ならば素材をスキャンしてパスでマスクをきり、レイヤーを重ね、そのレイヤーをシークセンスに展開してレンダリング、という工程になります。PC創世記に手作業で制作されたこの作品の工程がデジタルでの作業に置き換えられることが重要なポイントです。多くの合成・編集ソフトや3DCGのアニメーション機能はノーマン・マクラレン流のアニメーション理論でプログラムされています。用語はもちろんのこと、オプチカルプリンターの工程、レンズの口径やf値、フィルムのタイプ番号やジェル、編集バサミにいたるほとんどがプログラム化されています。
  つまり最先端のデジタル映像技術はフィルムを基本としているということです。この作品でえがかれている時代を隔てた親子のホームムービー同様にフィルム文化のDNAはデジタルに受け継がれています。もし「フィルムなんて古臭いメディア。これからはデジタル。」とか言われたら「ドルビーデジタルのデーターがどこに保存されているか知っていますか?」と切り返すといいかもしれません。根っこのフィルムをなくして実は育ちません。どうか、目先の利益にとらわれず未来を見据えてほしいものです。
 ※なお11月に第2回シンポジウムが計画されているとのこと。お知らせいただき次第、当HPの『募集』に掲載いたします。
 (2006年9月19日)

063『最後の1社になってもやる。』

 社団法人日本写真文化協会の機関誌『写真文化』に『モノクロ写真にこだわる』と題して連載することができました。同会は、営業写真館の団体つまり読者は皆プロなのです。それ故かなり緊張して書いてまいりましたが、9月号をもって6回の連載が終了しました。
 最後の部分に次のように書きました。 「最後の一社になっても・・・4月28日付けの新聞各紙は「富士写真フィルム株式会社から写真を除いた新社名に!」と報じました。その折の古森重隆社長の談話に「写真(銀塩)事業から最後の一社になるまで撤退しない。」とありました。
「なるまで」ではなく「なっても」と言い換えて「最後の一社なっても撤退しない」ことを願ってやみません。銀塩写真とくにモノクロ写真を大事にすることは。繊細な感性を持つ日本人、高度な生産技術を持つ日本の企業に科せられた使命ではないでしょうか。貴重な映像記録を後世に残すことが写真に関わる全ての者の責任です。」
 先日新聞を整理していましたら8月9日付け朝日新聞の経済面に、富士写真フィルム株式会社古森重隆社長の談話が載っていました。
 「写真は貴重な文化。銀塩フィルムも価値のある技術だ。写真文化を支えるためにリストラするのだし、古いというだけで切り捨てられない最後の1社になってもやる。ンズ付きフィルム『写ルンです』もやめない。デジタルと銀塩の両方で写真文化を支える。」
 このコラム058(5月2日付け)で「『最後の一社になるまで』ではなく『最後の一社になっても撤退しない。』と言って欲しいのです。」と書いた私の願いが届いたようで嬉しく思っています。
(2006年8月24日)

   朝日新聞8月9日朝刊

061それぞれのモノクロ写真展

  ジメジメした日々が続いています。梅雨明けはまだでしょうか。「日本列島南岸に停滞する低気圧と迫り来る台風3号のおかげで、各地に豪雨」というニュースが伝えられています。それにしても北朝鮮のミサイル発射には驚きました。5日朝、早起きしてW盃ドイツ・イタリア戦を見ようとテレビのスイッチを入れました。延長戦の後半が始まったところでした。後半最終段階でイタリアのツーゴール・・・・サッカーは一瞬も目が離せないスポーツですね。スポーツ音痴の私もさすがに高揚しました。
  昨日は久しぶりの写真展巡りをしました。有楽町駅を起点にし、富士フォトサロン→コダックフォトサロン→ニコンサロン→キャノンギャラリー→ギャラリー・アートグラフとまわりました。ギャルリ ドゥミ・ソメーユでは、日本写真学園の講師仲間だった清田一樹氏の写真展が開催中ですが、本日不在なのでまたの機会としました。丸の内線で新宿へ、ニコンサロンとコニカミノルタ・プラザへ。モノクロ写真が多かったのに満足しました。
  コダック・フォトサロン阿部晴子さん「Cafe Sepia」は、彼女が訪れたカフェの店内で見つけた空間を切り取った大変美しいモノクロ作品でした。女性らしい眼差しを感じます。キヤノンギャラリー吉田ヤスヤさん「昨日の名残、明日の気配」は、日常の空間で見つけた心象的な作品でした。同ギャラリーの最近の作品展は殆どデジタルフォト。吉田氏のものは銀塩写真モノクロ写真でした。
  コニカミノルタプラザで開催中の大橋 弘さん「1972 青春・軍艦島」は、氏が長崎沖の人口島(海底炭鉱)に6ヶ月住んで撮影された作品とのこと。軍艦島は多くの写真家のテーマとなり、奈良原一高氏の「人間の土地」や雑賀雄二氏の「軍艦島・棄てられた島の風景」などがあります。氏は私の1年先輩で1年次の担任は松田静夫先生でした。齋藤亮一さん「monologue/monochrome」は、ナイーブな作者の心情が伝わってきました。

 (2006年7月7日)

060銀座にモノクロ写真の拠点が誕生

 4月22日、銀座に世界初のライカ直営店(ライカカメラジャパン株式会社)がオープンしました。
 1階ショールームには憧れのライカMPとM7が展示されています。特別バージョンのカメラのは思わず生唾をのみ価格を見てタメ息を付くことになります。きっとライカおじさんのメッカとなり、周りの中古カメラ店にも波及することでしょう。「ライカ銀座店」と検索するとWeb上は大賑わいです。
  階段を上って2階へ行くとそこはギャラリー。現在はエリオット・アーウィットの作品展が開催されています。当然モノクロ作品です。今後は世界的な写真家の作品展が行なわれるとのことです。大いに楽しみです。ライカのギャラリーですから多分35ミリ作品に限られるのでしょう。そして奥には修理部門があります。
なぜここがモノクロ写真の拠点かというと高品質のプレミアムプリントの受け付けを始めたからです。プレミアムプリントとは、名プリンターとして名高い久保元幸氏がお客さんと対話しながら希望するプリントに仕上げていくというものです。久保氏は毎週土曜日に常駐し相談にのってくださるとのことです。一度お出でになったらいかがでしょうか。ここがモノクロの拠となることを願っています。
 住所:東京都中央区銀座6丁目4-1東海堂銀座ビル
(同ビル3階はコダック・フォトサロン)
(2006年5月6日)

059最後の一社になっても銀塩写真を支えて欲しい。

 4月28日付け朝刊各紙で「富士写真フィルム鰍ゥら写真が無くなる。」と報じられました。見出しを見た途端「銀塩写真から撤退か。」と慌てさせられました。それはそのはず「新社名から『写真』はずす」「『写真』社名からなくす」「社名から『写真』消え‥‥」と見出しが躍っています。写真に×がついた見出しまでありました。
 「新社名から『写真』の二文字をはずし、
製品ブランド名として親しまれている富士フィルムを採用する。」という日経新聞の押さえた記事が目立ちます。私たちはもともと「富士フィルム」と呼んでいて、新社名に馴染んでいます。
 古森重隆社長は記者会見で「当社は写真文化を支えてきた。写真(銀塩)事業から最後の一社になるまで撤退しない。」と語られました。私たちの願いは
最後の一社になるまで」ではなく「最後の一社になっても撤退しない。」と言って欲しいのです。
(2006年5月2日)

058晴れ着姿が眼に痛い!為政者に見て欲しい写真展

 朝日新聞は、4月10日から夕刊で『水俣 運命共同体の地で』という水俣病を扱った囲み記事を連載しています。今なぜ水俣病なのでしょうか。2006年5月1日で水俣病の公式の発見から50年を迎えるからです。1956年5月1日、新日本窒素兜t属病院から保険所に通報された日から50年の時が経過したのです。報道写真家・桑原史成氏による写真展『水俣の肖像 公式認定から』が、銀座ニコンサロンで4月22日(土)まで開催されています。10日のオープニングパーティと翌11日のニコンセミナー参加しました。氏との関係は深く先輩であり恩師でもあります。後塵を拝する間柄といってもよいでしょう。また1966年に手にした写真集『水俣病』(三一書房 1965年刊)が、私を写真学校への進学を決意させました。
 
水俣病は、熊本県の不知火海沿岸で発生した『よろけネコ』で始まります。「ネコが狂いまわって海にとびこんで死ぬ例が多く、ネコの集団自殺として不思議がられていた。」と記されています。やがて胎児性患者が発生し漁師など成人の発病と被害が拡大しました。桑原史成氏の写真集『写真報告 水俣病1960〜1970』(朝日新聞社 1970年刊)にある宇井純氏の解説文『水俣病の歴史』は水俣病は、その病気の悲惨さにおいて世界でもまれな病気であるばかりでなく、戦後日本の公害の原型として、現在日本の歴史の上で重要な意味を持つ事件である。・・・」と始まっています。
 桑原氏を筆頭にユージン・スミス氏など何人かの写真家がこの問題に取り組んでいますのでご覧になられたことがあるかと存じます。また桑原氏は何度か写真展および写真集として発表してきましたが、この写真展『水俣の肖像』はその集大成だと思います。ぜひ見ていただきたいものです.成人式の晴れ着姿の胎児性患者さんの姿は美しくまた悲しいものです。特に公害を許したこの国の為政者には必見の内容だと思います。
 島根県の津和野には桑原史成写真美術館があり、氏の作品の全容を観ることができます。なお大阪ニコンサロンでは4月27日(木)から5月2日(火)まで、同展が開催されます。
(2006年4月13日)

057PHOTO IMAGING EXPO 2006で見たもの

 3月23日から26日まで東京ビックサイトで開催されたPIE(PHOTO IMAGING EXPO 2006)へ行ってきました。以前のカメラショー・用品ショー・IPPF・ラボショーが合体してフォトエキスポとなり、デジタル時代になってPIEという名前になりました。
 数年前からデジタル一辺倒、特に今年はコニカミノルタ鰍ェ写真業界から撤退ということもあってでさびしい限りでした。こんな思いは私だけかもしれません。毎年恒例のモデル撮影会やメーカーのブースではモデルを追っかける男性で賑わっていました。しかし暗室用品はほとんど見られません。唯一ラッキー引き伸ばし機の藤本写真工業鰍セけが展示していました。健闘を称えたいものです。他のメーカーは、綜合カタログに掲載するだけでした。一昨年のフォトエキスポ時代には現像タンクなども展示されいたのですが残念でなりません。特に暗室用品は手にしてみなければ使い勝手が判りません。お店で箱を開けてみるわけにいかないので何とかならないかと思います。
 イベントにはいろいろ面白いものがありました。日本カメラ博物館の特別展示「ライカ」は見ものでしたし、「キッズ&ファミリーフォトパーク」では写真の普及の努力を見ることができました。「親子で楽しむ写真の世界」は、「クロサンゴ」と呼ばれる紙製組み立てピンホールカメラで撮影し、富士フィルムの「ダークレス現像キット」でフィルム現像が行なわれました。その後、会議室に特設された暗室でプリントを楽しむというもので人気を集めていました。モノクロ写真を知らない子どもたちにモノクロを体験してもらう良い機会でした。ご苦労様でした。
※写真は左からビックサイト全景、藤本写真工業のブース、NPOザ・ダークルーム・インターナショナルの巨大ピンホールカメラとスタッフ、ダークレス現像器でフィルム現像を楽しむ小学生(右手前がクロサンゴ)、でき上がったプリントの展示
※「親子で楽しむ写真の世界」は、日本写真協会、日本針穴写真協会、日本プリンター協会、NPOザ・ダークルーム・インターナショナルの共催でした。
 

054モノクロ8×10ネガティブの迫力

中川隆司氏の写真展「Border line」は、全作品モノクロ8×10ネガからの引き伸ばしプリントです。大判ネガからのプリントを是非見ていただきたいものです。
 アリゾナ州とネバタ州の荒涼とした風景を捉えています。荒野にぽつんとある集落に山脈が迫って見えます。本当はかなり離れているはず、乾燥し澄み切った空気がなせる技でしょう。その風景が大判ネガで細密に描写されています。「デジタルフォトがなんだ!どうだ銀塩写真は素晴らしいだろう!」という思いで拝見しました。
 中川氏は東京造形大学卒。毎年渡米してレンタカーで移動しながら撮影しているとのこと。夜モーテルのバスルームで一晩で30枚ほどのフィルムを現像するそうです。しかも一度に10枚をバットでトランプ式で現像するとのこと。4×5を現像したことがあれば判りますが、8×10を10枚手現像するとは正に神業です。
 「8×10のトライXを年間1000枚使う。これだけの撮影する写真家100人いれば銀塩写真は安泰。」と語っておられました。銀座ニコンサロンで2月25日(土)まで。
 (2006年2月14日)

053東京都写真美術館へ早く行けば良かった!

  展覧会の会期が長いとついつい行きそびれてしまいます。現在、東京都写真美術館で開催中の「写真展:岡本太郎の視線」「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET NAM そこは、戦場だった。」も会期終了間際となってしまいました。「写真展:岡本太郎の視線」は、運営委員を務めた「日本の子ども60年展」の会期の後半と重なっていました。「発掘された不滅の記録」と一緒に観れば良いと思っていたのですが、残すところ1週間になってしまいました。
 「写真展:岡本太郎の視線」は画家の片手間仕事と侮っていたのかもしれません。氏の作品「太陽の塔」とかコマーシャルの「グラスの底に顔があっても良い。」などになじめなかったからです。会場に入ってまず目にしたのはブラッサイの作品、マン・レイ、ロバート・キャパの作品が続いています。彼らは、岡本氏がパリ留学中の交友相手とのこと「さすが世界の芸術家岡本太郎だけのことはある。」と感激したり反省したりでした。圧巻は、拡大して展示されている岡本氏の密着プリント。芸術新潮の「藝術風土記」に連載された秋田や沖縄の写真のものです。
 「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET NAM そこは、戦場だった。」は、朝日新聞社が主催するものです。1954年から1975年までのベトナム戦争の記録です。ベトナム戦争の後半は私の青年期と重なります。写真家を志したのは、高校時代にダナン攻防戦での写真を見たことが動機となりました。思いを深めた写真展でした。
 ベトナム通信社(VNA)の従軍カメラマンの作品を軸に、朝日新聞の特派員や日本人フリーカメラマンの作品が加えられています。中にはピュリッツァー賞や世界報道写真展の受賞作品もあり、かなりの写真は見たことがあるものでした。当時の新聞紙面に(VNA・ジャパンプレスサービス)というクレジットで掲載されていた写真の原画を見ることができ感激しました。また困難な状況のなかで撮影され現像処理されたにも関わらず美しいプリントのものが多くこれにも感動しました。当時のことを考えればプロパガンダとしての役割も負っていたのでしょうが、時を経ることにより貴重な記録となっていることには間違いありません。
 初めて観たものに「マングローブの茂る沼地に設けられた解放戦線の野戦病院・・」という写真がありました。蚊帳で覆われた手術台、医師も看護師も膝まで水に浸かって負傷兵を待っているというものです。悲しくも美しい作品で感動しました。(作品番号35、撮影ヴォ・アン・カン、1970年・アンスエン省カマウ)
 「写真展:岡本太郎の視線」は2月18日(土)まで。「発掘された不滅の記録 1954〜1975 VIET NAM そこは、戦場だった。」は2月19日(日)まで。かならず観るべし。

 (2006年2月10日)

052年賀状から寸言

今年も多くの年賀状をいただきました。その中には、デジタルカメラの急進とモノクロ写真の将来に対する思いが綴られていました。そのうちのいくつかを掲載いたします。

  貴サイト拝見しました。私は専門的なことはわかりませんが、時々モノクロ写真を見かけるととても新鮮な印象を受けます。見かけることが少なくなったからではなくモノクロ写真には何か訴えるものがあるような気がしてなりません。それが何なのかは私にはわかりませんけど。(HP読者)  私は、マイペースですがモノクロ写真を続けています。最近バライタ乾燥用に網戸の網を使って棚を自作しました(T校卒業生・川崎市・女)  私は現像どころか、デジカメで楽チンな写真しかとっていないので、顔向けできませんが、お体大切にお過ごし下さい。(N校卒業生・豊中市・女)  今年もモノクロ・アナログ作業で頑張ります。(T校卒業生・大分市・男) 昨年、我が手にもデジカメが来ました。今年からスタジオ写真もデジタル化です。良いのか悪いのか?(T校卒業生・岡山市・男)  カラーがメインですが、モノクロもやろうと思っています。(N校卒業生・さいたま市・男) デジタルの世の中になって、銀塩の良さを再認識しました。ガンバロー!(T校卒業生・江戸川区・女) モノクロネガをカラープリントで、黒白専用ボタンを押しても黒く出ないのが不思議です。用紙のせいかとも思っています。(アマ・横浜市・男) デジタルフォト一辺倒。ボクは苦手。やれません。アナログボケの小生は、これで通します。ご指導ください。(JPS会員・兵庫県・男) 今年は『写真のルネサンス一年』と名付けて討って出ましょう。楽しきかな人生。幸いなるかなカメラ。(アマ・板橋区・男) 銀塩の分野がせまくなりましたが、モノクロ、カラーと撮り続けております。(アマ・横浜市・男) 今年もモノクロ一筋でやります。2月に森山大道さんが宮崎に来ます。「ベエノスアイレス」御自分でセレクトしたベスト展だそうです。(アマ・西都市・男) お元気ですか?すっかりデジタルカメラを活用するようになりましたが、ここぞ!という時には銀塩を取りだしています。(SONY社員・横浜市・女) 時代の変遷と言い切りたくないですネ。記録としての写真は絶対モノクロですのに‥‥。私の授業は銀塩モノクロを中心に今年も進めます。(写真学校講師・八王子市・男) 写真はますますデジタル化に突進中、居ながらにして名作がビンビン撮れそうな気配です。どこまで便利になるのやら、銀塩フィルムや印画紙は製造中止品もでてきている昨今です。昨秋、これはみておかなければと紅葉のお堀端を抜けてアウグストザンダーの写真展に行ってきました。レンガ職人や三人の若い農夫の写真など有名な数点しか知らなかった私ですが、簡素な背景処理で撮られた70〜80年まえの職種改装多岐にわたるポートレートに魅せられました。四つ切ほどの白黒バライタ写真は寡黙で雄弁でした。(JPS会員・座間市・男) このデジタルの波はどうしようもないといった感じのお手上げ状態な感じがします。(N校卒業生・さいたま市・男) バライタ印画紙を何箱か買いだめしました。(JPS会員・目黒区・男) 銀塩写真が片隅に追いやられいるような、今日このごろ、先生のおっしゃった『‥‥しかし自然の営みは、アナログです。』まったくその通りだと思います。私の写真人生は銀塩しかありません。(アマ・大田区・男)
※上記の私の発言とは、昨年(2005年)の年賀状の一節です。「新しいテクノロジーが旧来の技術を駆逐していくのは仕方がないのかもしれません。しかしそれで良いのでしょうか‥‥略‥‥しかし太古より続いている自然の営みはアナログです。私たちの息遣いも、花に集る蜂の羽音も、せせらぎの音も、北風に鳴る梢の音も、すべてアナログです。便利なデジタルフォトはあくまでも産業的なもので、銀塩写真(モノクロ写真)というアナログ技術は、自然の摂理に合ったテクノロジーではないかと思っています。」
 ※カットは、東京綜合写真専門学校の卒業生の飯田学さんからの年賀状です。彼は、全国の映画館を撮って廻っている写真家です。成果はいずれ見せてくださるでしょう。毎年このような映画館のイラストの年賀状を送ってくれます。かれこれ20年になるでしょうか。同じように家族を真上から魚眼レンズで撮影した写真の年賀状を送ってくださる卒業生もいます。決まったパターンの年賀状は、来年はどんなものかと期待してしまいます。
 ※『図書の紹介』コーナーで、朝比奈知彦著「『アナログ』人間ではダメですか!」と児玉光雄「リストラされる『デジタル脳』 最後に生き残る『アナログ脳』」を紹介しています。
(2006年1月25日)

048富士写真フィルム鰍フ「銀塩写真は止めない」宣言に敬意


 東京新聞(2006年1月20日)
 「コラムB&W」第042話にて「日本の写真史前半を支えた小西六写真工業」と題して、05年11月5日に報じられた「コニカミノルタ 写真事業、大幅縮小へ」の記事を紹介しました。さらに潟Rニカを知るために、新津重幸著「富士写真フィルム対小西六写真工業 シェア戦奮戦の秘密」から要点を紹介しました。そのコニカミノルタが、カメラ・写真事業から撤退とのこと本当に残念です。
 コニカ、ミノルタ両社の歴史を振り返ってみました。コニカは、米穀商であった杉浦家が薬種問屋・小西屋六兵衛を開業したことに始まる。1873年、杉浦六三郎が写真材料の取り扱いを始めた。これがコニカの創業である。1879年、六三郎は六代目杉浦六右衛門を襲名、日本橋に写真材料と薬種を取り扱う小西本店を開業した。その後、六桜社・小西六本店・小西六写真工業・コニカ冠コニカミノルタホールディング鰍ニ歴史を刻んできました。この間に小西写真専門学校(現・東京工芸大学)創設、多くの写真家・写真技術者を輩出してきました。
 ミノルタは、1928年田嶋一雄氏が設立した日独写真機商会に始まる。モルタ合資会社・千代田光学精工冠ミノルタカメラ冠ミノルタ鰍経てコニカと合併し現在に至っている。ミノルタという名前は「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」を教訓として「稔る田」を捩って命名されている。
 ニコンとコニカミノルタに関する報道、特に毎日新聞の「巻き戻せない 時代の流れ」という見出しは、「もう銀塩写真はだめだ。」との思いを植え付けてしまったと思います。
 私はデジタルカメラへの流れを否定するものではありませんが「全てがデジタルフォトになって良いのか」という問いを捨てる訳にはいかないのです。 デジタルフォトに問題が無いのかを精査する必要があると思いますここで精査すべき問題性(@証拠能力(合成・改変) A記録媒体の保存性 B記録媒体の変更 Cモアレ)をあえて提言しておきます。
 
証拠能力や保存性を考える時、思い出すのは1970年代毎日新聞社が出版した「発禁写真」など数々の太平洋戦争の記録です。なぜ他の新聞社にはできなかったのでしょうか。毎日新聞社写真部の皆様が、命がけでこの貴重な記録(ネガ)を守ったのかのか。写真部員の努力を毎日新聞社の中で語り継がれているはずです。署名記事ですのでぜひご見解を伺いたいものです。ネガという物質だから保存できたのではないでしょう。デジタルだったら‥‥危うさを感じます。
 ところで銀塩写真に対する不安から、富士写真フィルム鰍ノ問い合わせが集中したとのこと。それに答えて「銀塩写真はやめない。」という宣言が出されています。このことを敬意を持って受け止めたいと存じます。詳細は、富士写真フィルム鰍フ公式サイトでお読みください。
(2006年1月21日)

 日経新聞(2006年1月20日)

046 セバスチャン・サルガド「EXODUS」展を見た小学生たち

 社団法人日本写真家協会が主催する「小学生写真教育プログラム」で、2校目の川崎市立今井小学校へ出張授業を行いました。対象は六年生。「日光への修学旅行で撮影させたい。」という学校側のご依頼でした。11月初旬一回目の授業を行いました。内容はカメラの取り扱い方や撮影のポイントなどでしたが、小学生らしさを考えて欲しいと話しました。
 修学旅行で撮影された『写るンです』は提供していただいた富士フィルへ。現像後サービスプリントが学校に返送されてきます。その中から生徒が各自2カットを選び、四つ切サイズの注文しました。四つ切プリントが完成したところで二回目の授業です。カーペットがひかれた多目的ホールでの授業です。95名の六年生と担任の先生が三人、教頭先生に囲まれた中で行いました。20人ほどの生徒さん写真を講評しました。とても95名全員の写真を見ることができなかったのが残念でした。厳しい質問があり緊張した45分間でした。
 授業終了後校長先生が「ここは帰国子女が多いこともあり写真や映像に関心が強いです。一昨年渋谷のBunkamuraで開催されたセバスチャン・サルガド『EXODUS』展を六年生が観に行きました。そうしたら『夕食の時、無口になり食欲も無かった。』と親からの報告がありました。」と話してくださいました。写真が子供たちにショックを与えたのでしょう。
 小学生を子供と侮ること無かれ!彼らの感性は健全です。写真が伝えた同年代の姿が彼らを感動させたのでしょう。
『EXODUS』展の最終コーナー(第5部)には『子供たちのポートレート』が続きます。きっと写真の子供たちと目が合ったのでしょう。彼らの魂を直撃したのはモノクロ写真でした。カラーなら生々しすぎて目を背けてしまったことでしょう。

 
写真説明:(上)川崎市立今井小学校での授業風景。奥で立っているのが私です。(下)セバスチャン・サルガド『EXODUS』展の図録。なお同展は日本写真文化協会と朝日新聞社の共催。
 ※「小学生写真教育プログラム」に関心のある先生方は、社団法人日本写真家協会までお問い合わせください。06年度に向けて取り組んでいます。

(2005年12月18日)

045ああ!高校写真部が・・・・!

 11月29日早朝の便で宮崎へ。宮崎県高校写真部顧問研修会の講師としてお招きいただきました。2010年に宮崎県で開催される全国高等学校総合文化祭のために、県内の高校写真部の活動強化のための研修会のようでした。
 高校写真部の連合体はふつう高写連と呼ばれていますが、正確には高等学校文化連盟写真部会といいます。運動部は、野球部の甲子園大会のようなそれぞれの全国大会を目指して練習に励んでいます。しかし写真は個人作業ですので部活動もバラバラになりがちですし、高校間を取りまとめていくのも大変です。
 10時半に会場の私立鵬翔高校に着きました。9時半から始まっていた顧問会議に同席させていただきました。会議が長引き11時からの予定のレクチャーの開始が20分ほど遅れてしまいました。午後はフィルム現像(二浴現像法)とプリント実習(B to Bテストプリント法)を行いました。16時に終了して17時半から有志の先生方と懇親会というあわただしい一日を過ごしました。
 レクチャーでは「写真部指導のノウハウ」という大きなテーマでした。そこで「映像言語という言葉がありますがイメージを広め深めるのは言葉、読書を始めとした言語生活が大事ではないでしょうか。」また「プリントが綺麗になると写真が上手くなります。」と実例をあげてお話いたしました。
 顧問会議と懇親会の中で先生方が心配なことを語られていました。それは写真部の減少ということでした。小子化で高校が統合されて学校数が減っていることも事実ですが、先生方から「顧問が転勤すると部活が止まってしまう。」「写真を知らない先生が顧問になっている。」という話でした。つまり指導者がいないと写真部が潰れてしまうということです。宮崎県が特別ということではありません。実は高校写真部の減少問題を数年前より感じていました。それは千葉県の高校合同写真展で割り当てられている壁面が開いていたということからでした。つまり名簿上存在している写真部が実際には活動していない。つまり消滅状態だということです。指導者がいないまま作った作品を展示したら、みっとも無いものだったのではやる気も失せましょう。
 写真界(写真家団体・メーカー・教育機関)は、高校写真部の育成強化に真剣に取り組むことが急務であると思います。
(2005年12月9日)

042 日本の写真史前半を支えた小西六写真工業(現コニカミノルタ)

  11月5日(土)の朝日新聞の朝の記事『コニカミノルタ 写真事業、大幅縮小へ』には驚きました。早速市立図書館に行き各紙をみてみました。取り扱いはさまざまでしたが、さすが日本経済新聞は詳しく報じていました。帰りに買い込み熟読いたしました。「ついに来るところまで来たか」という思いに沈みました。拡大してお読みください。潟Rニカミノルタホールディングスは、長い間小西六写真工業株式会社の名とさくらフィルムの名で親しまれてきました。コニカと名を変えさらにミノルタとの合併で現時の名前になっています。多くの写真家。写真技術者を輩出してきた東京工芸大学の創立母体でもあります。そのコニカに危機が襲ってきたのです。このことは我々にとっては、これから銀塩写真はどうなるのか、モノクロ感材はどうなるのか、という問題に直結します。また良質な写真展を開催してきたコニカミノルタプラザがどうなるのか本当に心配になります。モノクロ感材はロールフィルムからシートフィルムに移行しておいたのが良いのかも知れませんね。少量生産も可能でしょうから。リンホフ・テヒニカの中古がお手ごろな値段で出ていますし。
 ここに、新津重幸著『富士写真フィルム 対 小西六写真工業 シェア争奪戦の秘密』(1980年・評言社)という本があります。少し長くなりますが引用させていただきます。

「 昭和41年のことである。
  日本の写真産業はオリンピック後の大不況の時期であり、市場はドン底の状態にあったと言える。しかし、この中で富士写真フィルムのみ画期的新製品『フジカシングルエイト』の成功で気を吐いていた。このことは小西六写真工業と富士写真フィルムを考えるうえで大変重要なことである。・・・略・・・どちらかと言えば富士写真フィルムが揺るがない地盤を背景とし、ゆとりを持って進行するのに較べ、小西六写真工業は七転八倒の苦しみの中での巻き返し作戦を展開していくのである。」(前書きより)
 
『第一章 小西六とともに歩んだ写真工業』
「日本における写真工業が今日の隆盛を誇るようになったのは、つい最近のことである。具体的には世界最大のカメラ消費国である米国への輸出額が、西独を抜いた昭和30年後半からである。それまでの日本の写真産業は、ドイツ、アメリカに押さえ込まれ、多難な道のりを歩んで歩んできたと言える。しかし、これらの多難な路を経てきたからこそ、今日の日本写真産業の隆盛があるのだろう。
 この多難な道の大半、いや日本の写真産業前史の大部分は小西六写真工業の道程とも言える。つまり小西六写真工業は、カメラ、感材(フィルム)をはじめとして、日本写真産業の開祖であり、発展の礎でもあるからだ。
明治十五年、小西六写真工業の始まり

 ところで、日本の写真産業史は、明治初年より輸入カメラを使う写真師に、写真・石版機材を販売する写真商の出現によって始まる。この写真商の代表的なものが明治四年創業の「浅沼商会」と明治六年創業の「小西屋六兵衛店」である。いうまでもな、「小西屋六兵衛店」は「小西六写真工業」の前身である。それ以後、日本の写真産業の発達は、カメラを中心に見ると、明治三十六年迄の「黎明期」、明治三十六年から第一次大戦迄の「模倣期」、第一次大戦後から昭和初年頃迄の「開花前期」、昭和初年から第二次大戦後の「開花期」、終戦から昭和三十年中頃迄の「復興期」、三十年中期以降の「成長、独創期」の六つに区分けできよう。このうち「開花前期」までが小西六写真工業の歴史と同義と言える。
 小西六写真工業は先に述べたように、東京麹町で薬種商「小西六兵衛店」を営んでいた杉浦六三郎が写真商に手を出したのがその始まりである。当時、ほとんどの外国製品取引利権は外国商人の手にあり、その商売のやりにくさは言語に絶するものであった。そこで本格的に写真産業技術を修得し、この不平等を是正しようとした六三郎は明治九年小西屋を弟に譲り、日本橋に「小西本店」を設立した。しかし、外国との直接代理店契約に、写真産業技術のない小西本店を外国メーカーは相手にしてくれなかった。そこで写真材料の卸・小売といった写真商では限界があると悟った六三郎は、明治十五年東京神田に写真暗箱、本郷に写真台紙、本所に石版機材等の小工場を設立、製造を開始した。メーカーとしての小西六写真工業の始まりである。
 カンダ工場はレンズ、シャッターを輸入しての写真暗箱の製造であり、ほとんどの部品を輸入に頼ったとは言っても、国産カメラ製造の第一歩と言えよう。」とある。
幾多の荒波を越えて日本の写真界を支えてきたコニカが、ついに私たちのところから離れて行ってしまうということは、本当に悲しいものです。
(2005年11月11日

041『1948年生れ・2005年大阪芸大卒』は、凄いことです。

 銀座ニコンサロンで開催中の『天女の羽衣〜団塊世代の女たち〜』を拝見しました。掲示されている経歴を見ると作者の柴田れいこさんは1948年生れ。私より一歳年下の方でした。「同世代の女性が頑張っている。」と感心したところです。ところが次の行には『2005年大阪芸術大学写真学科卒』とありました。これには正直ショックを受けました。
 受付におられたので、お会いしたことがある大阪芸大の先生方のお名前を出しながら話をしました。柴田さんは「子育てが終わったので、念願の写真を学びました。」と語られていました。50代半ばといえば、男性なら定年を間近にした何か一抹の寂しさを感じる頃ではないでしょうか。1947年(昭和22年)から1950年(昭和26年)に生れた我が世代は『団塊の世代』と呼ばれ、進学・就職・結婚といつも競争ばかりで何かと問題を抱えてきました。これら『団塊の世代』の断片を捕らえたのがこの写真展です。
 その柴田さんが主婦という立場で大学入試を克服し、しかも自分の子供より若い同級生と共に机を並べて学び、暗室実習をはじめ多くの実習をこなしてこられたことを思うと本当に尊敬してしまいます。きっと先生方や周りの仲間たちに支えられてこられたのだと思いますが、何といってもご本人のご努力の賜物でしょう。拍手を贈るのをおしみません。現在は岡山県津山市に住み、「Atelier56」を営み「モノクローム写真の撮影・プリント」業とされていると名刺に記されていました。
 写真展会場では一枚の印刷物が渡されます。展示されている作品のモデルとなられた方々のお名前と撮影当時の年齢、さらにご職業や生活の様子まで書かれています。個人情報が問われる時代にここまで協力をいただけるというのは作者の人徳でしょう。この情報があるから、団塊の世代が辿った人生の歩みを重たく語ってくれるのでしょう。
 人物の写真では背景は重要な役割をします。この欄でご紹介いたしました『HIROSHIMA』展で作者の宮角孝男さんは、原爆ドームを背景に使い、そこを訪れる人々を撮影していました。また『上野駅ご利用者 各位』の花岡 巌さんは、上野駅のコンコースを背景としました。人が置かれている環境が、その人物を雄弁に語ってくれるのです。(両展ともコダック・フォトサロン)  この展覧会の作品では、モデルを戸外に連れ出して撮影されています。背景は非日常的な空間です。そこから何を読み取れといういうのでしょうか。困惑しました。
 人物写真で次に物語るのは服装です。
この写真展の中で服装が物語るのは彼女らの人生の『実像』なのか『虚像』なのか。作品をご覧いただきたいと存じます。
(銀座ニコンサロン・2005年10月17日〜29日、大阪ニコンサロン・2005年12月15日〜20日)
(2005年10月22日)

039「小学生写真学習プログラム」に参加しました。




 社団法人日本写真家協会は、株式会社富士フィルムイメージングの協力を得て小学生のための「写真学習プログラム」を実施しています。
私は、企画委員としてこのプログラムの立ち上げを担当した一人です。このプログラムの趣旨は「小学生の写真への興味を喚起する。」ことにあります。つまり写真(映像)文化を担う次世代を育てたいということです。美術や音楽という芸術系の授業があるのに、先端的な表現手段である写真を学ぶ機会はありません。そこで主に5・6年生の綜合学習の時間で「写真学習プログラム」を活用していただくことになります。講師は日本写真家協会の会員が勤めます。もし小学校の先生でこのホームページを見ていただいていましたら、ぜひご参加いただきたいと存じます。ご連絡は、社団法人日本写真家協会事務局(03-3265-7451)までお願いいたします。近くに住んでいる会員が担当することになっています。
  初めの時間では写真の話をし、次の時間で提供されてた「写るんです」で撮影実習をします。自宅に持ち帰って家族や家の周りの様子を写すのもOK。回収された「写るんです」は富士フィルムで現像され、サービスサイズのプリントが戻ってきます。その中から2枚が選ぶと四つ切プリントをしてもらえます。原則的には講師が選ぶことになっていますが、子供たちが自ら選ぶことも可能です。四つ切プリントが出来てきたら、展示して講評という段取りです。学校や保護者には一切の負担はありません。
  9月13日、新宿区立江戸川小学校でこのプログラムの授業を行いました。今年同校の創立100周年ということで、特別全学年でこのプログラムを実施しました。5・6年生は斉藤康一理事が担当し、私は1・2年生と3・4年生を担当しました。持参した4×5のカメラで画像が天地左右逆像になることを見てもらったあと、「写真とは何か」と撮影で注意しなけらばならないことを話しました。昼食は3年生と一緒に給食をいただきました。午後の撮影実習は、100周年というテーマで校内を撮影したり、私が持参したピンホールカメラを楽しんでもらったりしました。写真の選択や講評は後日となります。
江戸川小学校は、東京・飯田橋の奥にある全校生徒120名の学校です。凸版印刷の印刷博物館近くにあります。周囲は、大小の印刷会社や製本会社など関連企業が集っています。ただ一時の活況はなく、工場の移転に伴ってマンションに変わりつつあります。校長室のドアは常時開けてあります。子供たちが何時でも校長先生と話ができる環境です。私が校長室にいた下校時には、何人か連れ立って校長先生に挨拶にきました。いいですね。9月23日付け朝日新聞は「小学生の校内暴力 先生相手 増加」と報じられていますが、そんなこととは無縁の学校でした。
当日は『朝日小学生新聞』の記者さんが取材に来ていて、9月21日付けで報道していただきました。またテレビ朝日系列の「キッズニュース」で30秒の枠で紹介されることになっています。見ていただければ幸いです。10月9日(日)の朝日ニュースターの11:40〜11:55と17:15〜17:30
(2005年9月28日)




※クリックしてください。


037不自由な体だけど写真を楽しんでいます。




 会場の撮影はお世話係の水原和夫さん
 

 ワールドカップ・サッカーで有名となった横浜アリーナに隣接して『障害者スポーツ文化センター横浜ラポール』があります。入り口近くには300席のラポールシアターがあり、多目的に使われる体育室やプール、ボーリング場まで設備されています。創作工房では陶芸までできる施設があり多くの障害を持つ方々が利用し楽しんでいます。
 2002年「初めての写真」という講座をおこないました。講座終了、受講者有志が「ラポール写真同窓会」を作りさらに学ぶことになりました。毎月第三土曜日に例会をおこなっています。私も遠路はるばるボランティアとして、作品つくりの助言をすることになりました。毎回の例会で選んだものを四つ切にプリントして通路に展示しています。この展示を見て後から参加する方も増えています。
 それぞれ異なった障害を持たれている方、介助する方、お世話係りを引き受けてくださる健常者の方が月一の例会を楽しんでいます。9月11日「ラポールの祭典'05」というイベントが行われました。その一環で我が「ラポール写真同窓会」も特設コーナーで写真展を行いました。たった一日のイベントでしたが、この写真展だけは17日まで延長してもらえました。見ることが出来ないと諦めて、会場写真をメールで送ってもらっていたのですが、実際に見ることができました。サービスサイズで作品を選び、展示の指示をしただけだったので内心不安もありました。「観客の反応も良く大成功だ。」と施設の関係者から聞かされた時は大変嬉しく思いました。ちなみに左側にあるメオ族の子供たちを撮影したモノクロ作品が私のものです。
(2005年9月19日)

036暗闇に垣間見るパリ

 東京都写真美術館で9月25日(日)まで開催されているポンピドゥセンター・コレクション展『ブラッサイ』を見てきました。一般入場料は1000円ですから全館を見られるセット券がお徳です。 
  ブラッサイといえば、写真史の授業でスライドを見た「パリのカフェ」が有名です。というかこれしか見ていなかったようです。改めて『世界芸術写真史』(リプロポート刊、1990年)を見てみましたら加えて娼婦たちの写真も在りました。
 入場時に写真展を解説したチラシが渡されます。そこには展示解説・作品リスト・年譜があり判りやすく鑑賞できました。『夜のパリ』『昼のパリ』『MoMA』『ミノトールとヌード』『素描』『塑像』『落書き』『変異』と章立てされています。やはり魅力ある作品は『夜のパリ』でした。カフェやダンスホールで夜を楽しみパリ市民の姿や暗がりに立つ女たちの生態が写されています。また夜景の造形美も魅力的です。チラシの表紙にあるブラッサイは夜景を大型カメラで写しています。だから闇の中にトーンがあるのですね
 夜景を大型カメラでしかも低感度フィルムを使う技法、取り入れてみたいと思っています。
(2005年9月4日)

034『鎮魂の月』の締めくくり

 被爆地・広島は、多くの写真家のテーマとなりました。
 被爆の様子を捉えた山田精三氏、被爆の直後を記録した山端庸介氏、名作『ヒロシマ』の土門拳氏、『HIROSHIMA NOW』の石黒健治氏、『写真記録ヒロシマ25年』の佐々木雄一郎氏、『Hiroshima』『ヒロシマ・モニュメント』の土田ヒロミ氏、『被爆者たち』の森下一徹氏など‥‥。多くの写真家が取り組んできました。私の本棚にある写真集だけでこれだけの写真家の作品が観ることができます。唯一の被爆国の国民としての思いからでしょう。最近出版された樋口健二氏の『報道写真集成』では「原爆孤老と韓国人被爆者」が取り上げられています。
 写真家はさまざまな切り口で広島と取り組んできました。タイトル一つでも、広島・廣島・ひろしま・ヒロシマ・HIROSHIMA、どれを使うかが問題となります。
 鎮魂の月の締めくくりとして新宿ニコンサロンで『光と影の軌跡 60年目のひろしま』が開催されています。作者の高塚陽一氏は、1962年生まれのキリスト教会の牧師先生。その優しい眼差しで捉えられた広島は、8月6日の喧騒とは別の広島を見せてくれています。

 写真に添えられた詩は松倉幸恵さんのもの。心が安らぐものです。案内ハガキには次の詩がありました。
   かつて
   四国まで流れたという‥‥
 
   それが 今、
   せき止められ ぶつかり合い
   時に 炎となる
 
   私たちの祈りは、
   どこまで流れていくのだろう‥‥

(2005年8月26日)

03321世紀の今も子どもたちは働かされている。

 写真史を紐解けば、ルイス・ウィックス・ハインの『カロライナの紡績工場』という有名な写真があります。H&A・グルンシャイムの『世界の写真史』には、『アメリカの社会学者ルイス・ウィックス・ハインは、貧しいヨーロッパ移民の生活に世の関心を集めるべく、1905年に写真をはじめた。それから3年後、彼はピッツバーグの鉄鋼労働者たちを撮影しながら社会学の研究をつづけていた。ハインが国家児童労働委員会のカメラマンとして、ショッキングな労働条件をバクロした結果、児童労働法が議会を通過するはこびとなった。』とあります。
 コニカミノルタプラザで開催中のJeffrey Leventhalさんの写真展「Working For Change--働かされる子供たちと、彼らを守るための戦い--」を見て驚きました。撮影時期が2003年〜2004年なのです。今この時も10歳に満たない子供たちは重労働に涙しているんです。

(2005年8月26日)

 032同時開催の江成常夫写真展


 8月20日まで、銀座・新宿の両ニコンサロンで、江成常夫写真展の写真展が開催されています。「戦争花嫁」「日本人の戦争孤児」などを発表して、“負の昭和”史を直視してこられました。新宿ニコンサロンで「鬼哭の島」、銀座ニコンサロンで「偽 満州国」を開催されています。
 『鬼哭』とは、唐代の李華のことばで「浮かばれない戦士の魂が声をあげて泣く。」という意味であると会場の説明文にありました。戦没者に対する「慰霊とは何か」を問われていると思いました。作品は、真珠湾の記念碑から始まりペリリュー・アンゴウル・パラオ・沖縄・サイパンと南の島々の戦績をたどっています。
 「偽 満州国」展は、現在の中国・遼寧省に残っている旧満州国の姿をとらえた作品です。押し付けられた日本文化の跡形を記録した作品です。作者は説明文の中で「国交回復後の日中間には、現代史認識を巡って深い溝が顕在しており、中国ではかっての『満州国』を『偽 満州国』とし、常套語としています。・・・中略・・・『偽 満州国』と深く関わる満州事変は『昭和の15年戦争』のもとで太平洋戦争に通じています。」
 一私企業の潟jコンが、このような重いテーマの写真展を開催されたことに敬意を表したいと思います。
(2005年8月11日)

031八月に開催される鎮魂の写真展
 

 8月は『鎮魂の月』です。6日の広島原爆記念日、9日の長崎原爆記念日、15日の終戦記念日、そして85年8月12日に発生した御巣鷹山の日航機墜落事故と多くの命が奪われた月です。特に60年前の太平洋戦争に絡む多くの事柄を記憶し続けなければならないと思います。記憶を新たにする時に写真が大いに役立つ事を確認したいものです。つまり『写真とは何か』という問の答に、『写真の記録性』を揚げることができると思います。
 8月東京では、坪島 遊氏の『ヒロシマの叫び、願い』(8月1日〜8月6日)アートグラフ、金井紀光氏の『8・6』(8月2日〜8月12日)コニカミノルタプラザ、宮角孝雄氏の『HIROSHIMA』(8月3日〜8月8日)コダックフォトサロン、江成常夫氏の『昭和史の風景 偽満州国』(8月8日〜8月20日)銀座ニコンサロン、江成常夫氏の『昭和史の風景 鬼哭』(8月9日〜8月20日)新宿ニコンサロン,高塚陽一氏の『光と影の軌跡 60年目のひろしま』新宿ニコンサロンと続きます。ぜひ見ていただきたいと存じます。
 憲政記念館で国際軍縮促進議員連盟が主催されている『平和への祈り 被爆60周年記録展』(8月4日〜8月9日)も一見の価値があります。内容は、写真家の伊藤孝司、桐生広人、豊崎博光、本橋成一、森下一徹、森住卓による『世界のヒバクシャ』展、原子爆弾災害調査特別委員会物理班地学グループによる調査資料『石の記憶』展、『広島から・長崎から 原爆の絵と平和ポスター』展。特に原爆の絵展は、写真が記録できなかった被爆の現実が描かれています。
※憲政記念館・東京都千代田区永田町1-1-1(国会議事堂の隣り)
開館:9時30分〜16時30分、入場無料
(2005年8月6日)

030「HIROSHIMA」展、原爆ドーム前の祈り

 コダック・フォトサロンで開催中の「HIROSHIMA」は、原爆ドーム前で撮影された記念写真風の作品です。案内ハガキではキスをしている男女の写真を掲載していますが、多くはドーム前で祈りを捧げているものです。写されている方々は観光客でしょう。多くの外国人が写されています。日本で、戦後60年で被爆の現実が風化してきているようですが、多くの国々では『核』の問題が深刻に受け止められている証拠ではないでしょうか。モノクロの作品ゆえじっくり見ることができました。「慰霊の8月」に相応しい写真展だと思います。
 日本広告写真家協会(APA)の宮角孝男氏の作品です。報道系でない写真家だったことも驚きでした。ちなみに1948年1月生れの宮角氏と1947年生まれの私とは同じ学年です。
 『フォトステージ』誌(05年7〜8月号)によれば「作者夫婦とも被爆二世で、奥様を二年前に腫瘍で亡くしている。」とのこと、事前にこの記事を読んでいればもっとお話ができたのにと残念に思っています。
8月9日(火)まで。
 (2005年8月4日)


 

027遙かなり「樋口健二報道写真集成」出版記念会

 先輩である樋口健二氏の出版記念会に招かれていました。
 出版記念会へ行く前に、コニカミノルタプラザでフォトプレミオの橋本タカキ氏の「WAVE」村上裕也氏の「こことこの先」を拝見しました。橋本氏はゾーンステムでモノクロ写真を撮っていた方で、作品はカラーをデジタル加工したものとのことでした。「デジタル加工をする上でモノクロの知識が役立っている。特に写真の階調表現とデジタルのダイナミックレンジ問題」だと話されていました。村上氏の作品はインドを中心とした周辺の国々で撮影された子供たちの写真。新宿ニコンサロンで18日まで開催されていた鈴木貴美子さんの「森に生きる」展の作品と同様で、日差しの強い中で浅黒い皮膚感を出すのに苦労しているようでした。
 16時20分頃新宿駅のホームへ。総武線で飯田橋駅へ向かいました。出版記念会の会場は神楽坂の日本出版クラブ会館。17時30分の開始には余裕で行ける時間でした。信濃町の駅に着いて乗降が始まった時、車体が左右に捩れるような異常な振動が起きました。座っていたので異常振動がよく判りました。地震発生だったのです。車内放送は「16時35分東京地方で震度5強の地震が発生しました。現在安全確認中です。」を繰り返すのみ。そんな時でも情報放送を聞かずにおしゃべりを続けるおばさんのグループには閉口しました。最後部に移動しました。飯田橋駅で神楽坂方面に出るのに便利だったからです。トイレに行くために改札口近くに行きましたが。内側には運賃精算のための列、外にはタクシー待ちの列が続いていました。 やがて流された放送によれば「都内中心部のJR・地下鉄共に全面不通で、開通の見通しは付かない。」とのこと、動かずに待つことにしました。しかし4時間も待つことになるとは想像できませんでした。18時になったので会場に電話したが通じない。以後15分おきに電話しました。18時半頃通じたので状況を話し。近くにいるので開通次第伺うと連絡しました。20時19分やっと発車。20時23分四谷着/24分発車→27分市ヶ谷着/21時発車→21時03分飯田橋駅着。結局、信濃町・飯田橋間が4時間28分掛かったことにことになります。転げるように改札を出て会場に向かいました。ところが神楽坂は盆踊り会場。人波をかき分けながら坂を駆け上りました。左に曲がったところで出版記念会の参加者と出会いました。「樋口先生は会場でまっています。」と教えてくださった。会館に入るとロビーで、この会を仕切った瀬崎直俊氏(社団法人日本写真家協会会員)とご子息の樋口知弘氏が待っていてくださった。早速写真集を購入しました。そこへ戻られた樋口健二先生にやっとサインをしていただき、本日の目的が達せられました。
 写真集は、題名通り樋口健二氏の全仕事をダイジェストしたもの。目次を見ると「四日市 公害問題の原点(1966〜1986)」から「原爆故老と韓国人被爆者」まで37項目に渡っています。自分や家族の身を守るためにも日本の高度経済成長の裏側を、この写真集で見ておくことが必要だと思いました。
「樋口健二報道写真集成」2005年7月25日初版刊行 価格:4200円+税 版元:こぶし書房 電話:03-3823-0524
同名の写真展が7月30日まで開催中 会場:こぶし書房内カナメホール 地下鉄南北線本駒込下車徒歩5分
(2005年7月25日)

016セバスチャン・サルガド氏の講演を聴いて

 一昨日(6月19日)、渋谷の日本写真芸術専門学校で行われたセバスチャン・サルガド氏(同校・名誉顧問)の講演を聴きにいってきました。聴講の主体は特別授業ですから同校の学生さんです。一般の聴講希望者は申し込み順で定員になり次第締め切り。しかし希望者多数ということで、定員外の方は教室でモニターによる聴講となりました。先日コニカミノルタプラザで開催された「DAYS JAPANフォトジャーナリズム展」と同様に、世界の実相を記録した写真が大事であると感じる方々が多くおられようです。モノクロ写真にも魅力を感じておられるのでしょう。田沼武能氏(日本写真家協会会長)、熊切圭介氏(同副会長)、梶原高男先生(大阪芸大講師・元日本カメラ誌編集長・私の恩師)など写真界の重鎮も多数聴講されていました。
 講演の内容は、主に氏の30余年の写真家としての歩みを語れました。後半は現在進行中の作品『Genesis』についてでした。『Genesis』とは、旧約聖書の創世記のこと。だからテーマは天地創造の物語。中判カメラで撮影された制作中の一部が上映され、大いに魅了されました。このテーマを、カラーの魔術師と呼ばれるエルンスト・ハース氏が『THE CREATION』と題して発表しています。ハース氏のカラー作品に対してサルガド氏のモノクロ写真がどのようなものになるか楽しみです。
 質疑応答である学生が、「悲惨な状況で撮影しているのに、サルガド先生の作品はなぜ美しいのでしょうか。」と質問していました。私も同じ思いをしています。氏の美学のなせる技でしょうが・・・秘密を私も知りたい。。
 じつは私は氏の大ファン。「好きな写真家は?」と聞かれたとき、「アンセル・アダムス、エドワード・ウェストン、ウィン・バロック、そしてセバスチャン・サルガド」と答えています。四人ともモノクロの作家。写真集は私の書棚の中央に鎮座しています。三人は、主に大型カメラで撮影していますが、報道写真家のサルガド氏が使うのは35ミリカメラ。
 1994年の「WORKERS」、2002年の「XEODUS」、2003年の「ESSAYS」と開催されたサルガド氏の写真展の図録は、寝室に置いて時折見ることにしています。悲惨な状況を写したものが多いのですが、氏の愛が感じられて毎回感動を新たにしています。困難な条件で撮影された作品群は素晴らしい。薄暗い条件でもほとんどノンスラッシュで撮影されています。暗闇を切り裂くようなストロボ光は人々を驚かせてしまいます。そうでない優しいカメラワークが嬉しい。それを可能にしたのがライカとズミルックスのレンズなのかも知れません。
※「XEODUS(国境を越えて)」展のオープニング(Bunkamuraザ・ミュージアム、2002年8月31日)の際に緒方貞子さん(元国連難民高等弁務官)に説明する様子を撮影したのですが、了承をいただいていないので公開できないのが残念です。
(2005年6月22日)

 012注目記事「ニッポン 人・脈・記 ベトナムの戦場から」

 今週月曜日(6月13日)から始まった朝日新聞夕刊の連載記事「ニッポン 人・脈・記 ベトナムの戦場から」をスクラップしました。
 朝刊は5時半に起きて読みますが、夕刊は帰りが遅いので隅まで読むことはめったにありません。だいたいは夕刊紙で済まします。資源ごみのために新聞を整理していたら、ピュリツァー賞を受賞した酒井淑夫氏の「より良きころの夢」と題した作品が目に留まりました。連載が始まっていたのです。あわてて新聞の束をひっくり返して切抜きを始めました。記事には懐かしい名前がありました。その方々がお互いに影響し合い繋がっている様子がこの記事のポイントです。
 写真を志した高校時代、写真学校での学びの期間、そして駆け出しのカメラマン時代がベトナム戦争と重なってます。当然この連載に登場する方々のことは当時より注目していました。そしてそれは憧れでもありました。岡村昭彦氏の『ライフ』に掲載された写真や著書の『ベトナム戦争従軍記』(岩波新書)、朝日新聞記者本多勝一氏の著書『戦場の村』『北ベトナム』などは良く読んだものです。結局、当時活躍していた英伸三氏と桑原史成氏が卒業した東京綜合写真専門学校へ進学し今日に至っています。 この後どなたが記事で紹介されるか楽しみです。
(2005年6月17日)

009茨城県高写連・写真講習会で!
 
昨日(6月10日)、茨城県民文化センター(水戸市)で行われた高写連の研修会に講師として招かれました。今回で多分16回目となるでしょうか。私は午前中を担当し、前年度の件高校芸術祭に出品された作品の優秀作品についての解説でした。選ばれたのは林義勝氏(写真家・林忠彦作品研究室代表)でした。大人には真似のできない斬新な写真も多く見ることができました。後半は、『デジタル時代に、モノクロ写真を楽しもう』と題してお話をしました。デジタル・フォトに問題は無いだろうかということをテーマにしました。またモノクロ写真を楽しむためには、現像は化学反応だから化学処理のルールを守ろうと話しました。守ればきっと美しいモノクロプリントが作ることができます。
 午後はハービー山口さんのスライドショー付きの講演。演題は『ぼくの写真とぼくの旅』でした。お許しをいただき拝聴しました。何故モノクロ写真なのかという問いに、「心が写るような気がする。」と答えられていました
。「カラーとモノクロの違いは、赤いリンゴと青いリンゴがある時リンゴの色が問題なのではなく、食べた時の食感や味が問題なのだ。それがモノクロ写真だと思う。という趣旨の話をされました。とても良い喩えだと思います。・・・・この話、ネタにさせていただきます。
※ハービー山口さんとは、中島秀雄先生のゾーンシステムのワークショップでご一緒した仲です。
※「図書の紹介」コーナーで著書のエッセイ集『日曜日のひだまり』とハービーさんの写真の原点となった写真集『LONDON chasing the Dream』を紹介しています。
(2005年6月11日)

 
001『写真家の先生』は偉いのか。
 過日、先物取引のセールス電話がありました。「投資していただければ、半年で2割の利子がつきます。いかがでしょう。」というものでした。私のことをやたらに「先生!先生!」と呼ぶので「何で先生と呼ぶのか。」と尋ねたところ「写真家の先生でしょう。」という答えが戻ってきました。「私は写真学校の先生だから『先生』で良いけれど、あなたに『先生』呼ばわりされる筋合いではないよ。ところで写真家は『先生』と呼ばれると喜ぶの。」と聞いてみました。答えは「・・・。」「とにかくそんな甘い話があったら他人には教えないよね。関心が無いから・・・。」といって電話を切りました。ところで『写真家の先生』は、そんなに偉いのでしょうか。
私は授業で出席をとる時、学生さんの名前を『君』『さん』と敬称を付けて呼んでいます。授業は仕事であり公であると思っているからです。しかし休憩時や校外では、親しみを込めて愛称で呼んだり名前を呼び捨てにすることもあります。触れ合いを大事にしたいからです。
 ・・・先生と呼ばれるのは嫌なのです。NPOザ・ダークルーム(横浜・関内)の斉藤久夫氏以下のスタッフの皆さんが、私のことを『きわおちゃん』の呼んでくださることに気に入っています。私のご幼少のころの呼び名であるからです。先生と呼ばれると緊張するのですが、これなら気が楽です。・・・
 そういえば数年前に藤本写真工業株式会社が開催した『露出計を使わないでファインプリントを作る』というワークショップでお教えいただいた大阪芸術大学の里 博文専任講師も「私を先生と呼ばないでください。」と言っておられました。
(2005年5月24日)